2013年12月30日 更新 『 綿菓子 』最終回 [物語でない物語の棒は残ったかどうか] 「私の書くものは物語でなく、書くことが物語です」などど偉そうに言いましたが、確かに言葉を尽くしてかいたところで人生ほど心の滋味に富んだ物語はないのではないでしょうか。そんな物語の始まりを断片的に幾つか並べて見ました。同世代とそれ以上の方が老眼鏡で読んでいただくことがあれば、そうだそんなこともあったっけ、と老眼鏡を持ち上げて、窓の外の青空を見上げてくださって、しばし物思いにふけってくだされば、「心慰みになれば」と思う私の物語の成果はあったと思います。 「そんなことに喜んでいたのか、馬鹿らしい」とゲームを止めて読んだことが口惜しいと思う若者は、どうぞ、干乾(ひから)びて、ゴワゴワした人生を生きてください。今からほんの五十年前の子供たちが、膝に血を滲ませながら、手首に鼻水を塗りたくりながら、それでもいきいき、わくわく、ピチピチと全身全霊で遊ぶことが出来たことを思い出しながら、私たちと同じように年老いてから、皮膚と同様に干乾びてしまった心に、悲しみの皺を深く刻んで、精気の失せた顔をしみじみと鏡で眺めて、これはきっと子供時代に差があったのかと、悔やんでください。 さて、文学作品がフィクションであり、絵空事で心理の機微を描くものだとしますと、今回もまた私は文学作品を書いていないのかもしれません。称賛される『源氏物語』が、「物語はドラマチックで、登場人物の心理描写は精緻で、その苦しみや悩み、打算などが読み取れ、時に共感を、時に反発を呼び起こしてもくれる」ものであれば、私の書き物は、『源氏物語』にはるかに及ばないとしても、全く違うジャンルだと思います。 今回の作品は違いますが、おっしゃるように、私の作品の中の登場人物は、『初恋』を例に挙げれば、「女性主人公『仁』さんみたいな女性はおれへんで」とおっしゃるように、現実にはそう言う人間は「おれへん」のですが、その「おれへん」人間を書くことで、少しは世の中や世界がましなものにならないか、というのが書いている動機です。ですから、伊吹は私の理想像でありたいし、登場人物は伊吹の描く理想の人間です。 先に理想を書いて日常で追いかける、それを若い頃からずっとやってきたようです。 「まるで現実味のない死語と言うか空虚な言葉と言うか、そう言う言葉と筋立てで、自分よりはるか未来に自分をぽんと放り投げて、そこに向って毎日を何としてでも近づけようとしている」とは今は消却してしまった二十代の書き物を読んだ友人の批評でした。 少なくとも、書くことだけで自立していませんから、絵空事の本を読もうとは思いませんし、これまでも読んできませんでした。とは言いましても、文学全集などを右から左へ片っ端から読んだ若い頃はたんとたんと読みました。そして読後に「それで何やねん」そう感想を持つだけの作品からはどんどん遠ざかってしまいました。ジェットコースターのように読んでいる間がアップダウンで面白くて、降りてから疲労ばかりというものでなく、綿菓子のように実体のないようなものをくるくる回しているうちに幼い夢を見られて、少しは腹の足しになるようなものを目指しています。 人それぞれに役割があります。私は私の役割がこの書き方だと思っていますし、それしかできません。虚空に像を結ぶと信じていた綿菓子のように、私には綿菓子製造機にしかなれません。原料となる「粗目糖(ざらめとう)」は神の情報で、熱くなっている中心部の筒は神のエネルギー場です。ぐるぐる回っている日常が、神の情報を神のエネルギーで立ち昇らせ、私はその中に箸を入れて回して、粗目が溶けて煙のようになった中で、言葉をまとわりつかせているだけです。しかも、綿菓子のようなほのぼのとした甘味はないかもしれません。そうして引きちぎられてうっすらと血が滲むように、読んでくださった人の日常を剥して心を傷つけて血を滲ませれば成功かと思っています。 あなたは優しく「読みつつもお前はこれを読むに値する人間かと問いかけなくてはいけないような感じなので」とおっしゃっていただきましたが、あなたのように優しくない人からは、「横柄だ」とか、「上から目線だ」とか、「お前に説教される覚えはない」とか、いろいろ言っていただきます。それはそれで私の目的が果たされている証拠で、私が自分自身の目線で書いているなら横柄ですが、先ほど申しましたように、伊吹龍彦として書いています。その伊吹は私の理想像でありたいし、登場人物は伊吹の描く理想の人間にしようと思っています。ですから、私の綿菓子のように歯ごたえの無いものが嗜好に合わなかっただけで、それなら、アメリカ合衆国生まれで、べっとりと血で包(くる)まれた林檎飴でも食べてくださればいいのです。濃い食紅が好みでしょうし、中の酸っぱい林檎のように、日常の酸っぱさにぶるぶるっと身震いしていただくより仕方がありません。同じ箸でも、無理やり突っ込まれた物が何を意味するのか、味わいながら食べていただくのが一番かと思います。 お答えになっていないお返事になってしまいましたが、「あなたの作品ももう読まない」とおっしゃっていただいて、いきいき、わくわく、ピチピチと生きていただいていれば、それで物語を作ってきた作家冥利に尽きます。もちろん作品が物語ではないのですが。 【あとがきに代えて=通信機器】 何で作ったのかどうしても思い出せない。紙コップなど容易に手に入るような時代ではなかった。トイレットペーパーも使っていない頃だから、その芯でもない。着物の反物を巻いている芯もボール紙だったから使ったのかと思うが、あれでは細すぎる。そして「ビービ―紙」を使った。ビービー紙などと言う言葉は無いようで、トレーシングペーペーだったりパラフィン紙だったりしたのだろうか、その紙を包装紙やケース入りの豪華本のブックカバーなどから拝借するが、唇を当てて息を吹くとビービーと鳴るからビービー紙で、そんな紙一枚でも遊び道具にしていたのかと思うと、物の無い時代の子供がいじらしい。 そして糸があれば通信機器は作れる。糸電話である。たぶんダンボールなどを丸めて、その一方にビービー紙を張り付け、その中央に糸を通して、その糸が抜けないように結び目を何度か作って抜け出ないようにする。それを二つに繋ぐと生まれて初めての手作りの通信機器ができる。通信機器と言っても数メートルかせいぜい数十メートルの伝達が可能になるだけである。いろいろその距離を伸ばすために実験がされているようだが、いずれにしても大差はない。 現在の通信機器が全てデジタルであるならば、糸電話はまさにアナログの最たるもので、畑を一つ越えた向うの友達の家とのやり取りだったが、可能な伝達と言っても言語だけであり、それもあやふやなものである。話をしてみて、「大声で聞こえたか」と糸電話でなく直接に確かめる。糸電話は何のための物かと思う。 「聞こえたか」 「何て言ったの」 「もう一度言ってみて」 「マイクテスト、マイクテスト、こちら晴天なり」 「何て言ったの、マイクがどうのこうのって」 そんなやり取りの間に穴が大きくなって糸が抜けてしまう。するともう伝わらない。そんなこともあって、それきりであり、二度としなかった。空間を隔てたところの伝達の難しさを知っただけで、思い出としては糸電話より、相手の友人の方が忘れがたい。 幼い頃から一緒に遊び、お互いの家に出かけ、一緒に食事をするような友達だったが、小学校二年生の時に、突然引っ越してしまった。引っ越したというより、豊中の元の家に帰ったのだ。何でも豊中が危ないから疎開してきていたそうだが、親の思いと裏腹に鉄道網の拠点である我が町は激しい爆撃にあった。我が家の別棟の二階の雨戸に大きな穴があり、一階にまで爆弾が突き抜けた跡があった。後年、その家を解体する時に、その落下地点と思われる場所では、慎重に工事が進められたが爆弾は出てこなかった。おそらくさらに深い地中に突き刺さっているのだろうと、新築に必要な深さより下はそのままにされてしまった。 糸電話、友人、疎開先、爆撃、不発弾放置などが連鎖的に浮かんでくるだけで、糸電話の思い出はぷっつり切れる。後年、それを思い出した時がある。インターネットの起源を見せてもらった時だ。 インターネットの歴史を引けば、「インターネットの原型は、一九六九年に米国国防省の高等研究計画局が導入したアーパネットで、米国内のカリフォルニア大学ロサンゼルス校、スタンフォード研究所、カリフォルニア大学サンタバーバラ校、ユタ大学の四か所に分散したコンピューター同士をつないで開通した」と出てくる。その一九六九年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校で情報学講座を受講していたが、当時は留学に日本円を持ち出すことができず、奨学金を受けないと留学できなかった。そしてその奨学金は試験によって決められていたが、その奨学金の最終選考の身体検査で、痛風のため学業に適せずと言われて、帰国を余儀なくされた。情報学と言う未知の分野への興味もあって、断腸の思いだった。それを素直に主任教授に伝えた。主任教授は、しばし、ふんふんふんと頷いていたが、ちょっとついてきなさいと私を連れだした。 教授は、あなたの人格は私なりに理解しているつもりである。あなたが私との約束を破ってこのことをあなた以外の人に話すとは思えないが、軍事機密なのでそれを約束して欲しいと言われた。おっかなびっくりでイエスとかシュアとか言ったことを思い出すが、見せられたのは、その四か所に分散されたコンピューターの一台だった。教室に戻り、誰もいない場所で、四つの大学の図を書き、それが将来ワシントンにつながり、世界中につながることを説明してくれた。「今に世界はこのシステムになる。あなたは工学的な勉強よりも、このシステムで世界中に膨大に溢れる情報を評価する方法を研究しなさい」と言われた。それが学業の半ばどころか出だしで頓挫した日本の若者への教授のはなむけの言葉だったようだ。 こうしてインターネットの原型を見る幸運に恵まれたが、その時に、言葉はもちろん、写真や映像まで瞬時に世界のどこにでも送れると聞かされたが、その数十年後に当たり前になっている状況も、当時の私には夢のまた夢だった。その時、教授に礼を言って別れ、言葉どころか画像も動画も瞬時に送れるという言葉を反芻しながら、なぜかあの糸電話を思い出して苦笑いをした。 そして今、糸電話からインターネットへの飛躍を考えると、インターネットから伝達を超えた情報の共有と同時生起のような伝達しない伝達方式が生まれるのだろうと思う。 もちろん主任教授との約束で、インターネットの原型を見せてもらったことは長く誰にも話さなかった。はなむけに頂いた『情報評価』と言う新しい学問分野は、帰国後『情報文化論』を共著で上梓したが、私自身の中では情報評価の評価軸はここ数年ようやく確固たるものになった。最初の頃は情報の評価はその情報を必要とする分野の目的によって、いろいろ変わると思っていた。例えば経済界であれば、金銭を稼ぐことが評価軸になり、政治家は表向きは民主的な政治かどうかであるのだろうが、本音だと選挙に当選するかどうかが評価軸になってしまう。 しかし、いずれの評価軸もその場その場の利己的なもので、決して世界共通でも、また誰にでもどこにでも共通するものではない。しかし、情報評価学の基本的な評価軸は、哲学と言われるのか、宗教的と言われるのか、精神世界とかスピリチュアルとか言われるかもしれないが、個々人の目的、個々の組織の目的を遥かに超えて、普遍的なものでなくてはならない。それは簡単に言えば、地球、いや宇宙全体にある命が全て大事にされるかどうかが評価軸になる。もちろん、山や海や川や湖や、空もそうで、地球がガイヤという女神であれば、地球が大事にされることが評価の軸になる。その兆候はあちらこちらで始まり、今までのように、金を儲けるために何をするか、と言うことが持続可能な評価軸でなくなってきたし、それでは個人も組織も早晩潰されていくことが確実になってきた。それに代わって、これをすれば誰が助かるか、誰が喜ぶか、誰のためになるか、など自分の行為で自分以外の世界全体の命を大事にできることが評価軸にならないと持続可能な組織運営も個人営為も不可能になってきた。経済活動も本末転倒で無ければ、最終的には金儲けにならない。良く言われるように「金儲けを度外視して」と言う評価軸こそ金儲けの最高の評価軸になってきた。 すなわち自分のためになることなら他者を押しのけてもやるような行動を生む評価軸は、その自分そのものに損失を与え、やがては滅びるようになってしまう。二人に一人が発症するようになった癌細胞に似て、周囲への危害も考えずに自己増殖を続けていると、その組織自体の基盤が死に至ってしまうという自己矛盾を起こす。言ってみれば、遊びながら子供が仲良く分け合ったように、分け合い、相互扶助、共生のようなことが評価軸にならなければならない。 おそらく一九五〇年代から一九六〇年代に数万年、数十万年繋がっていた糸電話はぷっつりと切れた。そして一九六九年には夢にさえ描けなかった伝達方法が日常の道具になり、この書き物でさえ、通信機器を通して読んでもらえることになった。 糸電話の相手が誰であるかが分かっていたことに比べると、デジタルの通信機器は地球上はおろか人工衛星内や宇宙基地の中でも伝達できるから、読んでくれる相手など皆目見当がつかない。 「おおい聞こえたか」とか「何て言ったんや」と相手に確かめることはできないから、誰がどう読んでくれて、どんな感想を持ったかもわからない。 ひょっとすると、この書き物は、ぷっつりと切れた糸電話を繋ぎ直したいと思ったのかもしれない。友達との間にはすでに人生の数十年が横たわり、空間どころか時間さえ決してつなげない。だが、その時代に意識をつないでみると、意外にビービー紙の振動は貴重なように思えた。素朴で破れやすい音でしかなかったが、何かぬくもりがあった。遠くにいる友からの声を聴こうとときめいていたことは確かだ。その何でもないものを作り、畑の柿の木や無花果の木を除けながら、ゆっくりと慎重にそれぞれの家に糸を伸ばしていったドキドキがあった。耳にあてる段ボールの丸みに一切の神経を集中して、相手の言葉を聞こうとした純粋な集中力もあった。 そんな糸電話のようなものごとがぷっつりと切れてしまったと思っていた同世代とは、「そんなことがあったあった」と肩をたたき合って確認したくなっていたのかもしれない。こんな時代に生まれ育つことがなかった人が読めば、なんてことはないのかもしれないし、「可哀想な子供時代だったんだ」と憐れんでくれるのかも知れない。 しかし、言えることは、高価な玩具が一杯入ったおもちゃ箱も、ゲーム機も何もない時代だったが、心はいつもときめいていた。ぴちぴち、わくわく、ドキドキしながら精一杯走り回っていた。破れた服やつぎの当たった服で、お腹を空かせながら、鼻水をすすりながら、それでも誰かをいじめるわけでも、仲間外れにするわけでもなく、分かち合い、思いやりながら、時に苦境を助けあいながら遊んでいた。 当時を思い起こすとなぜか切なくなるのは、子供ながらに悲しみを知っていたのかもしれない。幸いにも家業が盛業で当時としては何不自由なく育てられたが、それでも食べられない子、寒さに震えていた子、背中の弟や妹に背中でおしっこをされて泣きべそをかいていた子、父親が戦死したが、それを知らされずにやがて帰ってくると思わされていて、父親のいない寂しさを我慢していた子、自分のせいでないのに大人たちの差別意識に苦しんでいた子、母親がアメリカ占領軍の男と結婚して捨てられたために実家の祖母に預けられていた子、小さな町ながら交通の要衝の地でもあったことから当時の状況がそのまま子供たちに降り注ぐように様々な子供たちがいて、その仲間たちの悲しみが共有できたことが貴重な宝物になっているに違いない。私たち世代のおもちゃ箱は物はまるで入ってない空っぽだったが、そんなおもちゃ箱を一杯にしていてくれるのは、悲しみや、憐みや、優しさや、いたわりなどの心模様に違いない。 危うい通信機器で、まともな伝達もままならない糸電話であるが、その糸電話の一方を耳に当ててくださったことに感謝して、畑越しに叫んでみます。 「読んでくれましたか。おもしろかったですか」と。 【了】