2013年12月24日 更新 二四 コークス 独特の匂いだ。匂いがこの家は燃料にコークスを使っていると思う。匂いと言えば、かまどにくべる木の燃える匂いは心地よかったが、コークス、それに石油、練炭、さらには夜店の灯りであったカーバイトなどは、鼻に刺さる匂いと言うかあまり嗅ぎたいと思うような匂いではなかった。コークスはその不快な匂いだけでなく、辛い思い出もある。 コークスなんて今の子はまず知らない。石炭を燃やした後の炭のようなものと言えばいいのか。炭も木を蒸し焼きにして作るものだが、コークスも石炭が蒸し焼きになってできる。そのコークスが一杯落ちている場所があり、それを拾って帰ると家の燃料の助けになり、親たちが喜ぶ。そんなことで、子供たちだけでなく、大人もコークス拾いに出かけた。我が家は家業で食べ物を扱っていたので、コークスを拾って帰っても、その匂いで使うことはなく、無駄であったし、コークス拾いで命を落とす人が少なくなかったから、厳重に禁止されていた。 コークスを拾いに行って死ぬというのは、その場をイメージできない人には、想像することすら無理だが、我が町は巨大な蒸気機関車の操車場や整備場があり、その線路脇に蒸気機関車の燃料である石炭が燃えた後のコークスが良く落ちていたからだ。その頃は、鉄道の敷地に厳重に柵が巡らされていたわけでもなく、侵入している所を見つかると注意されたぐらいで、うまくやれば、コークスは拾えた。そのコークス拾いに夢中になってか、汽車の速度を読み違えてか、そのまま犠牲になる人があったからだ。それでもコークス拾いが相当期間続けられたのは、それが子供にできる手伝いのひとつでもあり、何よりも無料(ただ)だったからだ。 子供時代の手伝いと言えば、家電やガス設備が整う以前の家事労働の全てではあった。専業主婦などよほど裕福な家庭でしかなく、商売をしている家は、夫婦共働きは当たり前で、そのために子供でできる家事と言うか、子供は何でも家事をやらなければならなかった。風呂を沸かす、掃除する、夕食を作る、商売を手伝うなどのことは当たり前で、子供に子守をさせることも普通で、小さい体に赤子を背負って遊んでいる子もいた。 そうした手伝いの他にも、家庭を助ける手伝いはあった。例えば、田舎のことで第二次大戦後も長く木炭車が走っていた。大きなドラム缶で木を燃やして走るのだが、その木は二十センチか三十センチの薪だった。それが何かの拍子に落ちることがあって、それを拾って帰るのであり、乱暴な連中は、停留所で止まったバスから失敬することもあった。燃料調達の手伝いとしては、山に行って枯れ木を集めたり、松葉を集めたりも大事な手伝いになっていた。 食料調達も喜ばれる手伝いで、野草や山菜を集めては持ち帰ったりしたが、夏場は琵琶湖に泳ぎに行って、蜆(しじみ)を持って帰ることが多かった。「泳ぎに行きたい」と言わずに、「蜆を獲ってきます」と言って家を出る。その方が懸命に働いている両親や従業員の人にも気兼ねすることが少なかったからだ。 琵琶湖は透明で、子供の背が立つような水底は上からでも見えた。そして蜆を見つけると足の指で挟んで持ち上げるのだが、それで足のこむら返りを起こす子もいたが、誰でも器用に蜆を獲ることが出来た。少し頑張れば、家族の味噌汁の具程度は集められて、それを持ち帰れば、遊んでいたばかりでないことを証明できて、少しは気が楽であった。 今の子供たちには考えられない手伝いもあった。電話の呼び出しである。電話の普及率が低く、急ぎの報せは電報しかなかったが、商売などしている家には商売道具でもあるから、案外早くから電話がついた。そうするとなぜか知らない人から電話が入る。すみません、お宅の三軒向うの誰誰ですが、父親を呼んでもらえませんか、と言うように頼まれる。それも歩いて一、二分で呼びに行ける近所ならいいが、町はずれの人を呼んでくれと言う。少なくとも往復に十五分以上かかる。そうなると一旦電話を切ってもらって、二十分後にかけ直してくれと言う。そしてその指定の人を呼び出しに行くのが、子供の仕事である。 電話のある家に多大の迷惑をかけて電話をしてくるのだから、それが緊急の事態であることがわかるし、平身低頭感謝して帰られると、呼びに行ってあげて良かったと思う。中には厚かましく命令するようにかけてくる非常識な人もいたが、そんな時には、父親は、「そのかけ方では、うちは仕事を止めて呼びに行くわけにはいかない。言い方を考えて電話し直せ」と厳しく叱った。当然と言えば当然で、呼び出し料金など貰うはずもないが、親切でやっていることを自分の都合で当たり前のようにやる連中は、今も昔も一緒である。携帯電話など当時では信じられない物が出来たが、自分が話すのだから構わないと、大声で車中で電話する連中が絶えないのも同じで、時代時代でマナーも変わる。 手伝いの中でも「つけを配る」と言う商売をしている家に特有の手伝いがある。店をやっていてもその場で現金で支払う人は少なく、つけで買い、月末に請求書を貰って支払うと人が大半だった。だから、月末には、その請求書をほとんど全戸に配ることになる。つけを配る仕事は早くからやらされたが、それでも各家の事情は子供ながらに見えた。で、少し大きくなると、父親は集金にも行かせた。本来従業員さんの仕事だったが、集金をやらせることで、各家の事情を知り、社会勉強をさせようとしていたようだ。請求書は郵便箱や戸の隙間から入れるだけで、家の中には入らないが、集金はそうはいかない。各家を訪問して、玄関口や家の中で家の人に会い、集金の旨を伝えてお金を貰わなければならない。 「お手伝いですか、偉いですね」とすんなり払ってくれる人がいる一方で、「今日は金がない、今度来てくれ」とすげなく断られる。そうすると子供ながらに抵抗はしてみる。「今度っていつですか」「そやな、十五日がありがたい」などと言われると、売掛帳の写しに日付を入れる。しかし、「今度いうたら今度は今度や。そんなものいつか分かるか」などと乱暴な口調で突き返されると、外に出てから、その名前の上に黒丸を付ける。当然、何度行っても支払ってはくれない。そうすると、やがて何かの都合で買い物に来た時に、「溜まったつけを払っていただき、今回は現金で支払ってもらいます」と反撃に出る。もちろんそれを予想していた人は、しぶしぶ支払って、必要な物を買って帰ることになる。どうせ払うのなら気持ちよく払えばいいのに、そんなことを子供ながらに思った。 駅での販売をしていた関係で、突然の注文で製造部が忙しくて、店員さんまでも工場に助っ人に入ることになる場合は、店番は子供の責任になる。店でやるべきことは熟知させられていたし、「愛想よく笑顔で対応」とは良く教えられていたから、客には何の不自由もなかったと思う。むしろ子供ながらの対応があり、それが思わぬエピソードを作ることがあった。 子どもの店番は、注文が殺到する夕方が多かったが、そんな夕暮れ時に、必ず買い物をする人がいた。よれよれのコートで、赤さびた自転車に乗ってやってきて、そこが底が怪しくなっていることが一目でわかる靴でスタンドを立て、つかつかといつもと同じ陳列場所に行き、慌てて駆け付けると、その小柄なおじさんは、何も言わずに、左手の手のひらで小銭を見せながら、陳列ケースを右手で指さした。そこには今でいう「訳(わけ)あり商品」が格別の安い値段で提供されていた。ビスケットやおかきの割れたもので、百匁(もんめ)でおじさんの手のひらの額面で売っていた。 「これですね。いつもありがとうございます」 子供たちは、三百七十五グラムを言う百匁を遥かに超えて袋に入れ、秤にかけた。もちろん針は百匁を遥かに超えている。それでもそのまま手渡した。どうやらおじさんはそのことを知っていたようで、後年それを知ることになった。 当時駅では立ち売りと言うことが行われていたが、そのコンクールで全国二位になった売り手の人がいた。その人が我が家の商品を桁外れに売ってくれた。その人の勤務表を見て、生産量を変えるほどだった。もちろん販売技術が優れているとは思っていたが、ある日、詰所に配達に行くとこんなことを言われた。 「あんた息子さんか」 何か文句を言われるのかと一瞬緊張したが、その人は立ち上って、つかつかと寄ってくると、なぜか握手をし、私の手を両手で握りしめた。 「ありがとう。あんたのおかげでええ思いさせてもらった」 「エ、私が何か」 「うん、あんたら息子さんは小さい頃店番しとったやろ。その時親爺がビスケット買いに行ったんを覚えとるか。ボロボロのコートを着て、自転車に乗っ取った小っちゃいおっさんや」 「あぁ、あの方、存じております」 「あれがうちの親爺で、日雇いの帰りにあんたとこの店に寄らせてもらった」 「はい、ビスケットなど買ってもらいました」 「そやけで、あんたら息子はんらは、目方は大幅に超えほど入れてくれる上に、時々、親爺が見とらん間にキャラメルやらチョコレートやら入れてくれたやろ。あれを食べさせてもらっとったんがわしらや。貧乏はしとったけど、いつもおやつはあった。それはあんたらのお蔭や。そう思うて恩返しや思うて、きばって売らしてもろとるんや」 手を握ったままでそう話してくれたから、私は無理やり手を放した。涙を拭かないといけなかったからだ。 帰宅後に父親に、あの人がなぜそんなに必死で売ってくれるかの理由が分かったと話した。 「ええ話や。うちの誇りや・・・」 そう言いながら背中を向けた。泣いていたからだろう。 コークスの匂いを思い出すと、駅、立ち売り、訳ありビスケット、親爺の涙と連想を促す。もちろんコークスの匂いが、千切れ千切れになった死体にかけられていたむしろを思い出させもするが、豊かさが悲しみの澄んだ色を濁し、深く重い悲しみも、浅薄になってしまったように思えてならない。コークスの匂いを忘れないでおこうと思う。