2013年12月24日 更新 二三 栗鼠の欄間 「彫ってないところは風通しを良くするものですが、それだけではありません」 自分の彫った欄間を見上げて彫刻家はそう言った。その後が聞こえなかった。聞こえたのかも知れなかったが、幼い私には分からなかったのかもしれない。その欄間は、我が家の座敷のために彫られたもので、座敷の新築を聞いて、近くの上丹生の彫刻家が、欄間の製作をさせてもらえないかとやってきた。当時は、まだ彫刻家として生計を立てられずに家具なども作っていた頃で、欄間の彫刻はその後の作品への変化の始まりだったのかもしれない。葡萄の木に遊ぶ栗鼠(りす)の欄間で、両側から眺められるもので、子供心でも素晴らしいものだと思えた。栗鼠と葡萄の木が巧みに彫られた作品には、確かに多くの空間が残されていた。その空間が何のためなのか、分からないままいつか記憶の底に沈んでいた。 その後、その彫刻家がどんな作品を作っていったかは、その欄間から興味を持っていた。しかも父親から製作費を貰った時に、あなたにあげる、そう言ってもらったカードケースのような木彫の小さな箱に大造とあったから、後にその彫刻家が森大造と言う大作家だと知った。彼が不動明王、大日如来、そして霊山三蔵なども彫ったことを知ると、作家の中の意識が少しは理解できるようになったと思っていた。だが、「彫ってないところ」が何を意味するのか、わからないまま、そしていつのまにか忘れてしまった。 近年、彫刻について書かれたもので、似たような表現を見つけた。それは、「私が最も興味を引かれたのは、台の上に立てられた小さな真鍮(しんちゅう)の皿だった。その真ん中には、人間の立ち姿の輪郭が切り抜かれており、解き放たれた精神、完全なモークシャ(解脱)を達成した存在を表していた。この表現方法では、像は形を持っていなかった。それは空間だった。その形はただその周りの真鍮によってのみ表され、像そのものは空虚なのだった」である。それはサティシュ・クマールの『君あり、故に我あり』の中の一節だが、人間存在が無になることで解脱することを意味しているとすれば、森大造さんは、彫ってない空間に神がいてこそ、葡萄の木も栗鼠も像となりえる、そう言いたかったのではないかと思うようになった。 空間を彫るために、葡萄の木と栗鼠の形態を彫ると言いたかったのだろう。そう思う。そしてその空間があるからこそ、我々は生かされている、そうも言いたかったのかもしれない。手の中のいかにも無骨に見えて、それでいてどうも手触りが良くて懐かしい木箱を撫でながらそう思う。