2013年12月22日 更新 二二 アメリカは元気だ 憧れを作らされた時代があった。滅多に車が走らない国道を濃緑色のジープが走り、巨大な白い魔物が踏ん反り返って乗っていて、「ギブミー チョコレート」とか言えば、餌のように投げつけられる。当時でも悪魔が餓鬼に恵んでくれるとしか思えなかった。それは両親や年長者から、広島、長崎のピカドンやら、東京や大阪を全滅させるような爆弾を空から落とした悪魔だと聞かされていたからだ。それから半世紀たっても、その悪魔ぶりは健在で、地球上のあっちこっちの紛争に軍備を使いたいためだけに首を突っ込んでいるが、その悪魔を憧れに変えさせたのは、何だったのだろう、と考えてしまう。その憧れの原因は、幼いころには無かったからだ。 例えば、食かも知れないと考える。片田舎で給食などなかったが、五年生の頃に実験給食とか言われて、脱脂粉乳とコッペパンの飢えを凌ぐだけの給食が始まったが、その不味い給食でアメリカへの憧れが出来たわけではない。アメリカ政府の食料政策の一環で、国内の余った牛乳と小麦を政府が買い上げて、その処理として日本に施しただけで、人道的でも何でも無かったのだが、当時の教師は、ご丁寧にそれをいかにもありがたく感謝するように教えた。家庭生活の素晴らしさは、テレビが普及して後にアメリカのホームドラマを見てからだろうし、音楽に至っては、エルビス・プレスリーに魂を奪われたと思ったのも、幼い頃では無かった。 では何が憧れを作ったのだろう。いや、悪魔の国を素晴らしいと思わせたのだろう。勝ち負けで国や人間の素晴らしさを決めるのなら、やりたい放題で勝ったアメリカ合衆国は素晴らしかったのだろうが、その素晴らしさを遥かに凌駕して悪魔の事実が子供の心にも深く突き刺さっていたから、勝った国に憧れると言うような幼稚なことではなかった。 憧れは遠くの地に馳せることがあるが、きっとそれに違いない。それならば思い当たる節がある。姉に悪魔の国がどこかを聞いた時に、姉が地図を見せてくれて、太平洋と言う大きな海の向うのここだ、と教えてくれた。その地図で自分の住む町のそばにある湖を見れば良かったのだが、そんなものは見ないで、ただただ遠い所にある国だと知った。そして、友達に悪魔の住む国を得意げに教えた。地面に棒切れで、日本列島を、三つの丸とその中心の細長い薩摩芋のような形で表し、少し離れて、「この辺かなアメリカちゅうのは」と大きな形で書いた。あんなどでかい大人が住むのだからきっと大きな国だと思ったからだ。 「アメリカなら見えるぞ」 その地面を見ながら誰かが言った。誰だかは覚えていないが、誰も否定せず、「エ、見えるのか」「そんなら見たい」「僕も見たい」「私も見たい」と口々に言ったのは覚えている。「そんならついてこいや」そう言うと、裏山に連れて行かれた。山を少し上り詰めた所に烏岩と言う大きな岩があった。岩の上にくぼみがあり、そこに雨水が溜まって烏が呑みに来るからだ。その烏岩から少し下がって、再び坂を上って行くと、烏岩より標高差で倍はあると思われる軍艦岩に辿り着く。まだ山の頂上ではないが、まさに黒い色で舳先を山から突き出しているような巨大な岩で、軍艦と言う名にふさわしいものだった。その岩は上が甲板のように平だったから、後年、そこに寝そべって本を読んだりした。 軍艦岩に立つと、猫の額のような狭い町は山の麓に呑み込まれ、広い駅の構内から伸びる線路がわずかに見えているだけで、田園風景が広がり、その向こうに琵琶湖が見えた。何度見ても素晴らしい景色で、立ちあがった誰もが「おぉ」と言うような声を発してしまう。アメリカが見えると言った子が、得意げに言った。 「あの烏岩の方向をじっと見ていたら、海の向うにみえるやろ、アメリカが」 誰一人疑うことはなかった。「琵琶湖」と呼ばれるようになったのは、江戸時代中期以降と言われるが、『古事記』では、「淡海(あふみ)の湖(うみ)」と言い、都に近いために「近淡海(ちかつあわうみ)」と呼ばれ、近江の国の枕詞が「鳰海(におのうみ)」であるように、琵琶湖は「うみ」であった。子供が太平洋と言う本当の海と思ったのも、大人たちが、琵琶湖を「うみ」と呼んでいたからだ。 高校の修学旅行で東北に出かけ、猪苗代湖の前で、バスガイドが話した小話に苦笑した。それは親子が猪苗代湖を見た時に、子供が「おっとぉ、海ちゅうのはでっけえなぁ」と感心したそうだ。それを聞いた親が、「馬鹿こくでねぇ、海っちゅうのはこれの三倍もあるちゅうことや」と言ったという。 この小話で苦笑し、帰ってから琵琶湖と太平洋の大きさを計算したら、琵琶湖の二百五十万倍だとわかった。そんな日常で出会うことのない大きなものが子供たちの思考に入ることはない。正確を期することができないが、文化人類学者のブロニスワフ・マリノフスキのトロブリアンド諸島の報告だったかに、軍艦のような大きな物体を生まれてから一度も見たことのない現地の人の不思議な視覚についての報告があった、彼らは沖に停泊中の巨大な軍艦に像を結べず、いつも通りの海しか見えないと言うのだ。その報告は日頃確信している人間の感覚と意識が学習や習慣によっているもので、決して信じているような絶対的なものではないことを教えるが、視覚のような感覚でなく、思考を錯誤させることはよりたやすいのかもしれない。 「おぉい、今日もアメリカが見えるぞ」 ある日、先に軍艦岩に辿り着いた子が呼び、急いで登ってきた子が、前の子よりも視力が良かったのか、またまたとんでもないことを言った。 「今日もアメリカは元気だ。煙が見える」 後年、日本史の時間に教えられた『記紀』の仁徳天皇の逸話に「民の竈(かまど)」と言うのがある。仁徳天皇が「人家の竈から炊煙が立ち昇っていないことに気付いて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった」と言う。その「民の竈は賑わいにけり」と言う仁徳の善政を解く教師の言葉など全く耳に入らなかった。それはアメリカの竈から、それも子供にとっては暖炉のような贅沢の極みの物から煙が出ていることが「アメリカが元気だ」と思った子供心を思い出して苦笑していたからだ。悪魔が元気なことが喜ばしいと思うような気持ちでなく、憧れの地が元気であった方が良いと言う、子供特有の身勝手さだったのかもしれない。 アメリカの元気さを見るより、「鳰海」と呼ばれた鳰(にお)の元気さを見たことは、子供時代の思い出の中でも光っていた。鳰とはカイツブリのことで、それを見たと言っても、陸上を歩いている姿ではない。陸上で歩く姿は見たことがないが、どうも非常に不安定で歩くのは得意でなさそうである。ところがそれは水深二メートルまでの水面に近い部分を潜水で泳ぐ。その蛙の後ろ足のように使う泳ぎ方は、あっと驚く。実に素晴らしい。何でも秒速二メートルと言うから、時速七十二キロと言う結構なスピードである。 散歩していて、松尾橋の上から久しぶりにカイツブリの泳ぐところを見た。自然の素晴らしさ、命の凄さ、神の創造物の完璧さまで思考がドミノ現象を起こして、涙ぐんでしまった。向う岸にアメリカが元気でみえる琵琶湖などとっくに消してしまったが、カイツブリは半世紀を超えて感激で蘇った。「鳰海」は、カイツブリを生かすだけでも大事な湖なんだ。