2013年12月18日 更新 十八 愛犬を殺す 「愛犬を殺す」と書くと、犬を殺したようになるが、愛犬を殺したのではない。「愛犬を殺すように牛や豚を殺す」と間に言葉が入る。それは愛犬のスピッツを抱いて、二階の窓から暴れる牛を見ていてそう思った。その時に言葉にできなかったが、その思いを持っていたに違いない。その証拠は、その時の騒動の顛末から、悲しげな牛の目まで忘れることが出来ないからだ。 二つの話をくっつけないといけない。一つは牛の話。一つは犬の話。くっつけなければならないのではなくて、一緒のことが形を変えているだけで、幼心にも動物を愛し抱きしめることで、牛に謝っていると伝えて欲しかったように思う。今、そう思うのではない。明らかに当時思っていた。それは犬を飼ってほしいと父親に申し出た時のことを書けば、当時の思いが少しは明らかになる。 「食品を扱う家業で、生き物を飼うのは駄目だ」と言う父親の反対に、「殺されていく牛さんにどうして謝ればいいですか。犬を飼ってくれれば、犬さんに謝って牛さんに伝えてもらえるでしょう」と父親を困らせる理由を言った。 我が家は、母が完全菜食で、父は肉や魚の内臓などを好む食事で、母はそれでも目をつむって作ってはいた。私は母にならって、「肉を食べないと大きくなれへんぞ」と言われるためにしぶしぶ食べるぐらいで、肉食は敬遠していた。そんな父に、「肉食をするために牛を殺すのは可愛そうでしょう」と言った。父は肉食を非難されているようで返事に窮し、また私と同じように殺される牛が運ばれる場面を何度も見ていたからだ。 というのも、トラック便が発達していない頃で、駅から降ろされた牛は、我が家の前の道を通って、隣町の屠殺場まで引かれていく時代だったからだ。その牛が自分の運命を知っているのか、大暴れして逃げ出すことがたびたびあった。そのたびに雨戸を閉めて治まるのを待つのだったが、その様子を恐る恐る二階から眺めて、牛たちの哀しい目を何度も見たことがあった。哀しいかどうかわかるもんか、と言う人は、殺される前の牛を見たことがないからだろうし、そういう繊細さを持ち合わせていないだけだ。 だから私は、肉食を避け、成長を理由に食べろと言われる時期を過ぎると、ほとんど食べなくなり、今では全く食べない。いつの頃からか食べるとすぐに下痢をしてしまうようにもなった。おそらく内臓の反応でなく、意識の反応だと思う。 「ねえ、あの牛さんにごめんって言って」 犬を抱きながらそう犬に言った。それが伝わったからかどうかはわからなかったが、間もなく牛はおとなしくなり、引かれて行った。今思うと間違いなく伝わったと思う。私と犬が一体のように、抱くことはできなかったが、牛もまた一体であるからである。私と犬と牛の形や構成物は違っても、同じ元素とでもいうべきものでできているからだ。 「そんなものは魚も野菜も一緒だ。肉だけ悪者扱いして」と肉を食べなければ元気が出ないと誤解し、何としてでもその悪癖を守ろうとする「人食い人種」はそう言うのだろうが、日本列島では、牛や豚を、まして馬を食べるために飼育し、それを殺して食べるような残酷なことはしてこなかった。おそらく日本列島に人類が発生してから数万年、数十万年、ひょっとすると数百万年前からほんの五十年前まで、わざわざ牛や豚を飼育して殺さなくても、海にも山にも野にも川にも湖にも食料は十分にあった。 人間の欲望のために、人間の利益のために、動物を殺す。また殺した物を食べる。この当たり前のことが二重三重に愛を裏切っていることを知ろうとはしない。ひとつに、肉食を止めれば、地球上の飢えは無くなると言われている。牛を一頭育てるために穀物が一トンから三トン、水が二百トンいるからだ。その愛の欠落の証拠は、自分の欲望のために他者はどうなっても良いと思っていることだ。 もうひとつ、愛の交換と言うか、愛の意識が飼い犬と同等かそれ以上に高い動物の愛を無視してしまう。魚も野菜も一緒だと言うが、魚も野菜も優しさに体を寄せて来ることはない。少なくとも、犬や猫を飼って可愛がって、彼らに愛を注いでいるつもりの人は、肉食をしていることで、その愛が腐食していることを知らない。 今、「人食い人種」と言ったが、そんな野蛮な人間ではありませんと、ブランドの高級服に身を包み、高価な宝石を身につけて、肉を食べている自他共にセレブリティと認める女性が、お上品な仕草で口を拭くナプキンに、血が滴り落ちていることに気付かないだけで、私たちが他者を犯す時、自分をも犯している。私たちが他者を殺す時、自分の存在価値も意味も殺してしまうことになる。それは我々が全て一体の中でつながっているからだ。そう見えないのは、目の前に切りだされた肉片が見えている物質だからで、我々の意識、それは日常意識が部分でしかない意識だが、その意識では全てが一体で、我々はその部分でしかないからだ。牛を殺すことは人間を殺すことで、それは人を殺すことであり、自分自身を殺すことである。 肉食を称揚し、絶賛するような番組が溢れる時、巷に不条理な殺人が頻発することは当然で、美味しそうに肉を頬張りながら、なんて残酷なことをするのでしょう、と思っている人が、全く同じの残酷な意識でしかない。 動物愛護の団体の活動の盛んな欧米諸国で、動物への愛護が叫ばれ、一方で動物を殺して生き、一方で人間を殺して富を蓄える。動物愛護にだけ意識を向けて、他の人間、特に肌の色の違う人間はどんなに扱っても構わないと思っている。動物への愛を含まない愛は愛ではないが、人命尊重を叫びながら動物を殺し、動物愛護を叫びながら戦争道具を作り、実際に使用して殺す。その人々に愛なんてものは無く、家族愛とか国家愛とか言っている愛は、独占欲でしかない。 愛は一切に向けられる意識である時、ようやく愛であり得る。自分の都合とか自分の利益のためだけでなく、いかにも人類愛や動物愛を標榜しているように見せる連中の愛は、愛などと呼ぶにはいかにも意地汚い。究極的には、「自分」や「自分の物」などはなく、「自分のため」とか「誰それのため」と言うことも愛ではない。 愛が一切に向けられないと愛でないのは、我々の一切の存在が同じ元素から作られ、同じ光と空気と水によって生きられているからで、違いはその現われ方だけだ。一切がその形に現われた神である。 「人食い人種」呼ばわりしたが、肉食をしつつ神を殺しているとなると、本人はその味覚にこよなく満足しても、意識していても意識していなくても存在する神の表現物であることに反するストレスが肉体に少しずつ悪影響を積み重ねて、やがて肉体を蝕むことになる。そして神の表現物だということを蝕むことで気づかそうとすることになる。しかし、蝕まれた者も、それを近代医学で治療しているという医者も、彼らが信じて実践している医学的、生物学的な法則が、それらを下位の各法とするもう一段高い憲法のような命の法を無視して顧みない。 何でも耳を傾けてくれた末弟が膵臓癌になり、手術後の病院食に、ただ切除しただけでそう思う手術の成功のためか、肉を食べれば元気が出ると言う錯覚のためか、ステーキが出てきた。何よりも食についての忠告を聞いてもらいたかった弟は、「この病院は食事がいいんだ」と美味しそうに頬張り、医者をはじめ彼の家族もその食べっぷりに全快を予感し、私は弟が長くないことを悲しんだ。私の予感の方が外れて欲しかったが、その後数カ月後、病状が急変したといわれて急逝した。寄ってたかって病状の急変の原因を作っていたというのに。