2013年12月15日 更新 十六 蝉の脱皮 言葉を探している。「パンドラの箱」と言う言葉がある。「ゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした小箱または壺。これを開いたため不幸が飛び出したが、急いで蓋をしたため希望だけが残ったという」と言うギリシャ神話だが、諸説があっても、その大筋は、神は全能で、人間世界は災厄に満ちているが、希望が残ったとか、希望を持てば生きていけるとかいうことを教えるためのもので、西欧の意識の枠組みが生みだしたものだ。神を人間とは別個に作り上げて、神の思いで人間がどうにでもなり、そのために神を拝跪し、神に喜捨しなければならないと言う支配の寓意を読んでしまう。 それは、神話が、神々によってパンドラと言う女性の神を人類の災いとして作り、地上に送り込まれた人類最初の女性だとするあたりから、いかにも西欧的な考えだと思える。しかも、「プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために『女性』というものを作るよう神々に命令したという」からいかにもふざけている。災いの原因が神の怒りだとか、神の戒めだとか言いながら、世界の災いを作る悪行の限りを尽くしてきた西欧の意識構造の不潔さ、賤しさが匂う。 人間世界の、いや地球の災いの全ては、一握りの白人と、意識だけ白人の枠組みになった走狗たちによっているのであって、神は全能であり、常に善であり、特別な存在ではなく、世界そのもので、あちらにもこちらにも万遍なく、そう偏在するものであって、場所を限ったり、行動のいかんによって出現したりしなかったりするようなご都合主義でもない。「パンドラの箱」を開けようが開けまいが、世界の災いは全て人間の意識が作りだしている。私はそうしたことを夏の夜に見て知った。いや、その時にわかったのではなく、その記憶が後年の学習で納得させられただけではあるが。 では、「坩堝」と言う言葉はどうか。「坩堝」は、「物質を溶解し、または灼熱するための耐火性の深皿」で「坩堝の中が灼熱の状態であることから、興奮・熱狂の場のたとえ」とある。確かに興奮・熱狂の場にはなるが、どちらかと言えば、興奮・熱狂の場にありがちな騒がしさはなく、静かに、じっくりと感動する場である。だが:@p不思議が沸騰している。 その時に見た、と言う一回限りの感動でなく、あまりの美しさ、あまりの不思議さに何度も見た。何度も見ながらその神秘に驚き、不思議に意識が沸騰しながら記憶と言う意識の領域に確実に取り込まれた。そうしたものが一杯あって、それぞれが偶然の現象だと思っていても、それは必然だとか、それぞれに因果関係があるとか、ここにはきっと何か法則があるとかいうような思考の悪癖にも憑りつかれていない子供時代だったから、ただただ見とれて感動した。 はっとして、ほっとして、うっとりとした。一瞬ではないが、時間が消えていたから、数十分の時間だったのだろうが、一瞬の動きに意識が共鳴したように記憶されている。「急に思い当たったり、思いがけない出来事があったりして、一瞬息をのむような緊張感を覚えるさま」を言う「はっと」から、「精神的な緊張が解けて、安心したり心が休まったりするさま」である「ほっと」し、「美しいものなどに心を奪われて快いさま」と言われる「うっとり」と言う意識が、目の前に繰り広げられる「とんでもない」動きに共鳴した。 それは懐中電灯の光の中に、もそもそと木を登る蝉の幼虫を見つけた時に始まる。事前に注意されていたように、脱皮したい場所を決めるまでは灯りを消していたから、どんな動きも見逃さないと目を凝らして、闇の中の動きを見ていた。場所が決まったのか、動かなくなった。その観察記録を持って行った夏休み明けの理科の授業で、動かなくなったのは外側だけだと知って、子供ながらに命の営みの不思議を知らされた。じっと動かないように見えたのは外側だけで、内部は命が沸騰しているということだ。しかも死と誕生を同時に行っていると知って、蝉がとてつもなく偉大な存在に思えたのも確かだ。蝉は蝉の形をした神さまだ、そう最近には思うようになったが、その思いも少年時代の記憶が色を変えて輝いただけだ。黒板に「アポトーシス」と言う難しい言葉が書かれ、それは蝉となって空を飛ぶために、今までの成長を進めてきた細胞が死んでいくことだと聞いた。動いていない間が命の工場になっていたことを知ったのは後のことだが、その時は動かない状態を見続けるために意識も動かなかった。 子供の意識には愚かな経験の蓄積が無いから、このまま死んでいくのだろうかとか、もう終わるのだろうか、とか、これは失敗だろうか、と言うような無駄な予想は浮かばず、ひたすら待つ。だからその背中の皮の色が、懐中電灯の光の中で白っぽく変わってくると、さらに意識を集中して瞬(まばた)きもせずに見つめ続ける。背中が割れ、蝉の身体が出てくると、蝉の小さな殻が命のドラマを演じる大舞台のように思え、観客の私は、固唾を呑んで見守り、思わず「がんばれ」「がんばれ」と口に出してしまう。 そして「はっと」した。体がほとんど出たと思った瞬間に落ちたと思ったからだ。その時は、もそもそと木を登り、最後に闇の中に飛び立っていく間で、最も大きな動きだったのかもしれない。突然、逆さまになるのだ。そして「ほっと」したのは、逆さまのままで、再び動かなくなったからだ。初めてそれを見た時には一切がそこに集中していて、大人になってからは厳しい修行をしたり、はたと気付いて悟るまではできないような「無」の境地で見続けた。 逆さまになったままでの休止、それは翅(はね)を伸ばす段階に進むためにはどうしても必要な期間だと教えられた。もちろん休止しているのは外見だけで、またまた翅のために翅製造工場がフル操業しているに違いない。足が時々動く以外は、翅も目だって大きくならない。ところが、体の上下を腹筋運動のように元に戻すと、新しい足で殻につかまって、みるみる翅を広げる。茶色の固い殻から、水色と緑の水彩絵の具を混ぜたような、柔らかさをパステルカラーで染めたように、ヒグラシやツクツクボウシは透明を広げ、アブラゼミは緑の筋に塗り込めたように乳白色を広げる。「うっとり」とし、大きくため息をつく。 柔らかさが空気をさばける硬さを得て、やがて飛んでいくのだが、その飛び立つところを確認すると、蝉と一緒に大仕事をしたような満足感に浸る。そして逆さまになる時に見た大きな目を忘れられなくなる。その目が命の証のように思えたから、この出来事は、もちろん「パンドラの箱」のように災厄の詰まった情景でもないし、むしろ大声でありがとうって叫びたくなる感動が詰まっている場である。命の坩堝と言っても、音もなく静かにしとやかに進行するドラマであり、命の奇跡と不思議の連鎖である。だから、子供の頃に蝉の脱皮と羽化を見たことは大きな財産になる。光が届かないと思う土の中のような社会で蠢いて、木をもそもそと登るような日々の暮らしの中で、意識がパステルカラーの軽さや透明になって、大きく飛翔できるひとつの契機にはなる。 こうした出来事が全て偶然の所産でないことは、注意深く自然を観察すれば子供でも分かる。その偶然の多さに驚かされることから偶然だけではありえないと思える。今思うと、その偶然と言う現象の基本には、きっと「こうである」と言う必然の思惑があり、その思惑こそが「神さま」であり、一切の情報とエネルギーの源だとわかる。またその個々の現象の緻密さ、人間の合理的な理論では納得できない神秘さから考えても、その個々の現象をおこす命が、またその命そのものが進化によって変化してきたという『進化論』など全く信じられなくなる。『進化論』などは子供の目にさえ信じがたいもので、まだ社会にとっては「用不用」とか「適者生存」とか「弱肉強食」が法則のように思わせられない子供には、生きるためにそう変化してきたと信じるには、あまりに神秘的なこと、不思議なことが多かったからだ。子供心に、何億年たっても、どんなに時間をかけても現在の緻密な形態に進化などできない、と思えた。 今は逆に「進化論」を唱えているが、それは「生命は海の中で発展し、のちに地上に移住したと主張した」古代ギリシャの哲学者アナクシマンドロスに始まり、チャールズ・ロバート・ダーウインで構築された形態や機能の「進化論」ではなく、意識の進化論である。しかも残念ながら他の生物には通用しない、人間だけの『進化論』である。しかも、白人の意識の枠組みが正しいと言う偏見によって、世界の大勢が進化どころか退化していることを認識しての進化であり、気の遠くなるような進化であり、それは幼い頃にでもそう思えたように、決して時間によってもたらされることはないということだ。ほとんど百パーセントに近い人が、「自分の信念を曲げるくらいなら死んだ方がましだ」と思っている調査と研究の情けない結果からしても、人間の意識の進化は絶望的ではある。 命は空を飛ぶために、形を変え、色を変え、古い抜け殻は捨て、内在する神が広げるように翅を広げて、夜明けの空に飛んでいく。それに比べて、人間は、形はもちろん、色も変えられないし、脱皮することも羽化することも出来ない。だから他の命とは比較にならないような無限の意識を与えられた。しかもその意識は、神の意識と一体であり、神の意識の一部であることを認識できる意識である。 蝉の脱皮と羽化にならって人間は意識の脱皮と羽化をしなければならない。それを蝉の脱皮と羽化の記憶からそう思えた。蝉の脱皮と羽化は、無限に、そして常時繰り返されている自然の神秘、神のはからいのほんのひとつに過ぎないが、自然の神秘、神のはからいをひとつでも現象として見ないで育ってしまうほどの不幸は無い。