2013年12月15日 更新 十五 血を吸わない目 宵の明星からとっぷりと日が落ちるために、あたり一帯が一気に闇に塗りこめられる前、木立の合間から薄墨の空がのぞき、木立の闇から薄墨の空に飛び出した黒がひっきりなしに飛び回っていた。 「よう見ときや」 隣の家のお兄さんがそう言ったが、黒の濃淡だけの世界に真っ黒を投げあげたから、目を凝らしてもはっきりと見えない。かぶっていた学生帽を力一杯投げ上げたのだが、それが空中で一回転すると、二人のそばにどさっと落ちた。お兄さんが駆け寄って帽子の前に座り込んで、私の顔を見た。 「ええか、ここからはゆっくりとやるんや」 そう言うとお兄さんは帽子の下を両手ですくうようにしながら帽子を丸めた。中に壊れ物が入っているように慎重で優しかった。 「聞こえるか」 丸まった帽子を差し出して私の耳のそばに持って来てくれると、確かにチイチイ鳴いていた。 「エ、なんですか、鳥ですか」 「さぁ、ゆっくりと帽子の隙間を作り、そこから出てこようとするからこうして首のところを捕まえると…どうや、初めてか」 「初めてです。これが夕方になったら一杯飛んでいるんですね」 「そうや。蝙蝠や。正確にはアブラコウモリと言うんや」 「蝙蝠なら血を吸われる…」 そう言いながら私は腰を下ろしたままの姿勢で後ずさりした。 「そう思うやろ。そやからあんたに見せたげたかったんや。今、大学で生物学を専攻しているけれど、僕らの知っていることが間違っていることをあんたらに教えておきたかったんや。また仲間にも教えたげてほしいな」 アブラコウモリは、夜飛び回るからどうも悪者のイメージだが、この小さな体で、体重の半分ぐらいの蚊や蠅や蛾を食べてくれる。確かに血を吸う種類も少しはいるけど、日本列島にはいない。そう言った話をしてくれた。 血を吸わないと聞くとその顔が鼠のようで可愛いと思い、帽子の中で顔だけ出している蝙蝠に近づいた。お兄さんは私が近づくと帽子から出ている頭の後ろをつかんで、全身を取り出した。翼を広げると、絵本で見ていた蝙蝠になった。『黄金バット』のバットは蝙蝠だから、みんなが思っているような悪者ではないとも言った。確かにその目が今まで聞いてきたことの嘘を否定していた。 「持ってみるか」 「いいですか」 「ここをこうして持って、そうそう、そして顔を見たら、捕まえてごめんね、と言って放してあげて」 私はお兄さんの言うようにして、可愛い顔の蝙蝠の目を見て、「ごめんね」と言って優しく放り投げた。蝙蝠はすぐさま黒に飛び込んで同化してしまった。私は、お兄さんを質問攻めにすることになった。 「お兄さん、どうして蝙蝠は吸血鬼だったり、吸血鬼の子分だったりするのですか」 「『黄金バット』と言う正義の味方を作って金色の蝙蝠と一緒に現われたやろ。あれは日本の鈴木一郎さんと言う人が作ったんやけど、日本と欧米のものの考え方の違いやと思う。欧米のものの考え方は人間中心と言うか、白人中心で、他の生き物は自分たちがいいようにしてもいいと思っているんだ。だから、動物をすぐに悪者にしてしまう。狼なんかその典型で・・・典型が分からないと言う顔をしたが、代表と言うか見本というようなものや」 そう言うと狼は悪者の典型で、『赤ずきんちゃん』に登場しておばあちゃんを食べ、赤ずきんちゃんを食べてしまうようになっているが、日本では、狼は獣偏に良いと書くように、欧米のように忌み嫌って、見つければすぐに殺すと言うのではなくて、狼を大きな神と書いて信仰したりしてきたことを話してくれた。獣偏を棒切れで地面に書き、そこの横に良いと書くと確かに狼になり、何か今まで教えられてきたことが全部正しいとはいえない、と子供心に思った。 さらに、欧米とのものの考え方の違い、そして狼を神格化するアイヌやアメリカ・インディアンの話を聞くに及んで、環太平洋と太平洋民族への終生続く憧れが出来てしまった。 このお兄さんは、幼いころから私たちを遊んでくれたが、自分が大学に進むと、休暇のたびに帰ってきては、いろいろなことを教えてくれた。そのために子供たちもお兄さんが帰ってくる時期が近付くと、いろんな質問も準備した。アリジゴクやフンコロガシについて聞いても、子供には驚異深い話が一杯あった。お寺の縁の下にある小さなすり鉢状のくぼみがアリジゴクだが、それがウスバカゲロウの巣で、虫を取るための捕食のシステムと教えてくれた。フンコロガシが糞を転がす本当の理由は分からないが、糞を食べてくれるから地球が綺麗になると言った話は、後年の意識の枠組みの基礎を作ってくれたようだ。梟(ふくろう)にしても一緒で、農作物を食べる野鼠などを食べてくれるから、鎮守の森と言う場で大事にしている、とか聞いた。それは電気を消し忘れた学校の体育館の風を入れる窓から夜に飛び込んで、出られなくなり、子供たちがワーワー言いながら追いかけて捕まえたものだった。 こうして私たちは周りにいる動物や鳥や昆虫がそれぞれに役割を持って生きていることを教えられた。 「ええか、周りにある自然のもので無駄ちゅうもんは何も無いんや」 そうお兄さんは言ったが、今思うとそのあとに、生きているものは全て素晴らしいとか、無駄なものは何も無い、と言いたかったのだろうし、それに比べて人間だけが何のために生きているかを知らないで生きている、そう言いたかったと思う。と言うのは、当時の言葉を思い起こすと、お兄さんは生物学を専攻して、生物の素晴らしさを知れば知るだけ、自分たち人間が腑甲斐ない存在だと思い始めているようで、その煩悶を解決できないまませめて子供たちに生物の素晴らしさを知ってもらおうと思っているようだった。 「どうして、僕たちの質問にすらすらと答えてくれるのですか」 「子供の頃に不思議に思ったり分からなかったりしたことを大人に聞いても教えてくれなかっただろう。だから、大学に入って、自分の子供時代に不思議に思っていたことをせっせと書き出して、片っ端から調べたからだ。君たちも分からなかったり、不思議だったり、面白そうと思ったことはどんどん調べて、子供たちにちゃんと教えられる大人になってほしい」 お兄さんへの憧れもあって、いつの間にかお兄さんの周りは塾のようになっていたが、集まっていた子供たちが大きく頷いた。子供が理解できるとかできないは二の次で、易しく噛み砕くよりできるだけ正確なことを教える方がいいと思うようになったのは、お兄さんのやり方から学んだ。その中でも当時最も理解できなかったが、今でも決して忘れないのは、軍艦岩の上で教えてもらった歌だ。 「都の西北 早稲田の森に 聳(そび)ゆる甍(いらか)は われらが母校 われらの日ごろの 抱負を知るや 進取の精神 学の独立」と腹から声を出して歌えと言われた。それが歌えるようになると、「紅萌ゆる丘の花 早緑(さみどり)匂う岸の色 都の花にうそぶけば 月こそかかれ吉田山」が教えられた。 当時大学生は角帽に学生服と決まっていた。お兄さんの角帽を交代でかぶって、大学への憧れを育んだ。その角帽は卵と灰と油でコテコテにはなってはいなかったが、それでも先輩から拝領したものか、相当に年季が入っていた。後年、寮歌で知った大学と違う大学に進んだが、入学式の後の休暇で実家に戻って来た時は、大学生協で買った角帽を袋に隠し持っていた。当時、誰もかぶらなくなった角帽だったが、生協の棚の隅で見つけて、躊躇なく買ったものだ。 そして良く晴れた日、軍艦岩に登り、角帽を袋から出してかぶり、大声でわが母校の校歌を歌った。途中英語が入る我が校歌は、寮歌の蛮カラなニュアンスよりハイカラではあったが、それでも精神は一緒だったし、お兄さんが当時悩んでいた人間の目的とは何か、意味とは何か、と同じように悩み始めていた。角帽をかぶって歌って、大人の仲間入りが出来たように思えた。もちろん夕暮れ迫る神社の境内に戻り、薄闇の中に帽子を放り上げた。三度目に確かな手ごたえで帽子が落ちてきた。真新しい角帽の中で、チイチイ鳴いていた顔を見て、思わずお兄さんがしていたように謝った。 「元気だったかな。僕の角帽に入ってくれてありがとう。びっくりさせてごめんね。もう二度としないから」 もし彼であれば三年、彼女であれば五年の寿命だから子供の時に捕まえた蝙蝠は彼らのお爺さんのお爺さんぐらいかもしれない。じっと見詰めてくれる顔が可愛かったが、お兄さんのように優しく空に投げ上げると、黒に飛び込んで消えた。一度もかぶることはなかった角帽を買ってよかったと思った。