2013年12月8日 更新 十三 かわいそうな水 手を放して、思い切り飛び出さないと枝にひっかかる、震える足で、先端の細い枝の上に立ち上がろうとしてそう言いきかした。「よっしゃ、行くで」と叫ぶつもりが、目をつむって飛び込んでしまっただけで、叫ぶ余裕もなかった。案の定、飛び方が足りず、枝にはひっかからなかったが、金魚草の中に飛び込んでしまった。青い花を頭に乗せて浮かび上がり、岸で見ていた友達が大笑いしたが、それが頭上にちょこんと乗ってしまった花だとはわからなかった。 金魚鉢に入れるから勝手に「金魚草」と言っていたが、お兄さんから正式には、「ホテイアオイ」と言う草で、日本の植物ではなく、南アメリカ原産で明治時代に観賞用に持ち込まれたと教えてもらった。繁殖力が旺盛で、漁業や船の航行の邪魔になるから、「青い悪魔」と呼ばれ恐れられているとも言われた。後年、ホテイアオイを処理する大型機械などを見て、邪魔者扱いを可愛そうに思い、水質浄化に役立つと報道されると、どこかで「良かった」と思う気持ちが湧いてきた。ホテイアオイは飛び込みの邪魔にはなるが、言ってみれば友達であって、一緒に夏の思い出を残してくれた。 友達と言えば、もちろん人間の友達だが、溜池とその水面に伸び出している木も、少しひんやりとした水も、驚いて飛び立つ水鳥も、飛び込んだ水中で見る鯉や鮒たちも、みんな友達であり、ひとつの情景の中に残っている。半世紀たった今でも通りがかった家の前に置かれた水槽にホテイアオイを見ると、「キュン」となってぎくしゃくした日常を蕩けさせてはくれる。 水は命を奪う危険なものだとは知っていた。だが、当時の子供たちにとって、水はさまざまな時に欠かせない仲間であった。もちろん欠かせないと言えば、人間には欠かせない水だから、子供時代には水を良く飲む。だからと言って、ペットボトルがあったわけでもないし、水筒は遠足の時ぐらいにしか使わないから、水は現地調達と言うか、飲みたい時に探せばどこでもすぐに飲めた。もちろん各家に井戸があり、よほどの日照りでもない限りそこから水は溢れていた。常時溢れていない水でも、ガチャコンと言う手動式のポンプで二、三度動かせば、冷たい水が溢れた。 通りがかりの家にそれを見つけると、家の近くまで行って大声で叫ぶ。 「水を飲ませてもらいます」 最初から許可を貰うのでなく承諾してもらうような言い方だ。たとえ溢れている水とはいえ人の敷地内だからとか、礼儀だからとか声をかけることを教えられたこともあるのだが、挨拶をするのは、もうひとつのご褒美が降ってくることがあったからだ。大声が聞こえて、「ええよ、たんと飲みや。そや、ボン、お腹すいてへんか。かきもちやったらあるで」とか、獲れたての果物や野菜とか、時には駄菓子や餅をくれた。当時の子供は誰もがお腹を空かしていることを知っていたからで、子供は自分の子でなくても、大事にしてくれた。流れっぱなしの水に西瓜やトマトや胡瓜を冷やしている井戸でも声をかけて許可を貰うことになる。何も冷やしていないと声をかけずに飲ませてもらうことがあるが、冷やしている時は必ず声をかける。冷たいトマトや、時に西瓜にありつけることもあるからだ。 水はどこでも飲めた。地面に這いつくばって川面に直接口をつけて動物のような飲み方は、今では隣村の地蔵川でしかできなくなったが、川の水はどこでも飲めた。琵琶湖の水さえ飲めた。五十年前の高校時代に、琵琶湖北部にキャンプに行って、コップに直(じか)に水を汲んで、当時飲物としてはやっていた粉末ジュースを溶かして飲んだ。クラス全員が飲んだが、お腹の調子を悪くした者はいなかった。美しき母なる琵琶湖をたった五十年で取り返しのつかないほど汚してしまった。間違いなく農協の勧めた農薬で。 水が淀んで腐っていなかった溜池や琵琶湖は、夏に泳ぐ格好の場ではあったが、川でも泳いだ。川の場合は、年長者がどこそこが深みで、どこそこには岩があるとか、どこそこは川の中で流れが変わるから気を付けろと教えてくれた。溜池や湖に比べて危険が増した。危険が増しただけわくわくすることになる。危険だから十分に注意して泳ぐ。自分の体力、水の流れ、深さ、冷たさ、障害物、そういったすべての条件を意識の中に広げて、その上で安全なように泳ぐ。するとその緊張と全体への注意深さが、喜びを倍加してくれる。 あれでは水も、水で遊ぶ子供も可愛そう、あんなにおっかなびっくりでないと水と仲良くなれないなんて可愛そう、と思うのは、家の前で、ビニールの小さなプールで水遊びしてはしゃぐ子供を見たり、学校でのプールの授業や、その時の監視不行き届きでプールの事故死などの報道を見た時だ。どこかが違ってしまった。 もちろん水自体が変わってしまった。頭からかぶれば、夏でもぶるぶるっと震える冷たさもなく、ぬるい、少し粘着性を持った、厚ぼったい感じで、化学薬品の匂いが残る水しか飲めなくなった。いかに浄水器を通しても、岸に腹ばいになって飲む地蔵川の水とは違う。それに雨の降り方も乱暴になった。日照りと豪雨が容赦なく襲い、洪水、ゲリラ豪雨で頻繁に被害を与える。もちろん、水が変わったのは、水のせいでも自然のせいでもなく、人間の愚かさのせい以外の何物でもない。洪水も、金銭に目がくらんで、杉や檜の単林にしたからで、大地をアスファルトとコンクリートで密閉してしまったからだ。雨も人の営みが落ち着きなくせわしないように、山肌を一気に流れ、ついでに山肌も引きずって滑り、川を一度にどっと流れ、大地に染み込むこともなく、堤防を越えて町に溢れる。時に地球を揺らせ、海面を盛り上げて津波となり、命と財産を嘲笑うように持ち去ってしまう。予期せぬ水の恐怖に慄(おのの)く。 思い出の中の川は穏やかに流れている。多種多様の命を育みながら、いつでもさらさらと綺麗に流れている。思い出で美化されているのではなく、五十年前の川は事実そうだったからだ。思い出せばいつでも優しく美しく流れている。それは鮒(ふな)を釣り、泥鰌(どじょう)やアメリカザリガニを手づかみし、メダカやゲンゴロウを網ですくう小川であり、石をひっくり返しては沢蟹(さわがに)を探す谷川の小さなせせらぎである。曲がり角で底をえぐられて深みを作っている川に、岸の岩や木から飛び込む冷たい急流である。 もちろん時には、予期せぬ水もあった。ぬるっと土手で滑ってざぶんと落ちてしまって、仲間の笑いを誘うことはあっても、そのままずぶずぶと命を引きずり込むような泥濘は無かった。予期しながらも驚くのが水鉄砲でやる戦ごっこで、後ろから突然冷たい水をかけられると、襟足を流れる水にブルブルと震える。 襟足と言えば、子供心に襟足の美しさや、自分たちの泥塗れの汚い指と違って、細くて綺麗な指を見詰められるのも水辺だった。女の子たちが、笹船を作ったり、いたどりで水車を作ったりするからだが、笹船は、自分もやらせてと近づいて嗅いだ甘い匂いを乗せながら、昨日も今日も、きっと明日も流れ続ける。 とっくに襟足も乱れ、細く綺麗な指も皺だらけになっているのだろうが、あの時の優しい心は変わっていないと笹船が教えてくれる。