2013年12月1日 更新 〇九 蒲鉾板 魔法の絨毯になって空を自由に飛んだ。豪華客船で世界周遊の旅に出た。たった幅六センチ、長さ一四〇センチ、厚さ一センチの板切れで大空を飛んだ。五つの海を豪快に航海した。 魔法の絨毯のように空を自由に飛ぶことが出来たのは想像力と創造力の方で、まず誰もが豪華客船を建造することから始める。見よう見真似で作り始めて、遊んでくれている年長者に助けてもらって、一号艇は竣工する。 当時、『タイタニック』の映画などなかったが、舳先に立って、「俺は世界の王だ」と叫ぶために造っている気持ちではあった。そこに全ての意識を集中していたから、世界の一切がそこにあったといってもいいからだ。 大海原を波を蹴立てて疾走するために、一方の先を三角形に切り落とす。そして反対側の両側を一センチ程度残して、五センチほど切り込みを入れる。後は、小さな板切れか、当時は珍しかったプラスチックの板切れを探してきて、それをゴムバンドで挟んで船尾になる部分の残しておいた両側にかける。やったことのない人には想像できないだろうが、そうして切込みの中で自由に回転できる板切れをクルクルクルクル回して、ゴムバンドを限界までねじる。そして空中で回転してしまわないように慎重に水に浮かべて、板切れを止めていた指を放す。蒲鉾板はゴムバンドで回る板切れを推進力にして、外輪船となって進む。 数十センチも進めば大成功だが、それでも大海を航海できたように大はしゃぎで拍手する。ラジコンの豪華な船の模型を操縦していかに長時間動かしたとしても、その意識はラジコンと模型の点と線に限られてしまうが、蒲鉾板で数秒しか走らない船は、一枚の蒲鉾板が自分で動く船になることで、それを作り遊ぶ人間にラジコンで動く船とは比較にならないほど意識を広げ、想像力と創造力と肉体を使う。 まず、その変哲もない板切れに船をイメージし、その先端を切る。小さくて厚みがあるから、鋸(のこぎり)で切るのは結構な努力がいる。手で押さえて切ってうまくいかないと、見かねた年長者が足で押さえることを教えてくれる。足で押さえて、怪我をしないように慎重に切る。切ってみても左右のバランスが悪いとどこか気色が悪くて修正する。切ったままでは味気ないのでサンドペーパーなどかけて磨いて丸みを帯びさせる。 子供にとって後部はさらに難しく、同じ幅で残すように物差しで測って鉛筆で印をつけ、二つの切り込みを入れる。その切込みの先端と先端を繋ぐ線で切り落とさないといけないが、これが新たな問題を生む。やっと切ることを覚えたが、今度は鋸の歯を入れられない。そうすると見ていた年長者や親が、糸鋸を教えるか、ノミでカットすることを教え、ようやく後部甲板がコの字状に切り込まれる。今度は、そのくぼみで回転できる木切れなどを探す。そしてそれをゴムバンドの中央に挟み込んで完成である。 進水前に色を塗りたいとか名前を付けたいと思ったりする。油性のマジックペンなど無い時代、ペンキをどこかで借りてきて、細い筆で幅一センチの船腹に書かなければならない。それはそれで大事業で、ペンキを使っている工事現場を探したり、友人の看板屋さんに恐る恐る頼んだり、自宅の納屋を探し回って、と発想と努力と、それに借りた時の感謝の仕方などのマナーまでと意識は大忙しである。 またその色合いで子供ながらにセンスを問われるだろうし、甲板に旗でも立てようとすると、船の大きさと旗の大きさのバランスも必要だし、旗にする棒を探さなければならないし、錐(きり)などを使って穴も開けねばならない。しかもしっかりと立てられるように工夫もいる。大袈裟でなくまさに総合芸術である。 それが完成した時の達成感は、子供にとっては世界を征服したような大きなものである。かといって半日、あるいは一日を費やして完成しても、せいぜい数十秒の航海しかしない。それでも誰も文句など言わないし、がっかりもしない。自分で動く物を作った充実感は代え難い。しかもゴムバンドが弱いと数秒で止まり、かといって何本ものゴムバンドを束ねてやれば、一瞬の勢いは出てもすぐさま転覆したりする。微妙な調節も教えられる。 蒲鉾板で船を作ると言うこの昔ながらの、今の子供からみれば貧乏くさい、ダサイことも、その後の人生を大きく変えてしまう。何かを創りだしたり、そしてその経過に夢中になったり、達成感に歓喜したりできない人間は、少年時代に既製品の玩具で遊び、動かすと言ってもせいぜいリモコンとかラジコンとかで操作することしかしなかったせいだ。 一枚の蒲鉾板は、子供時代には様々な意識と技の発達のきっかけを作る掛け替えのない学校になるが、後年、蒲鉾は古人の知恵を教えてくれるものにもなった。まずそれは、海に囲まれた日本列島では当然のことで、蒲鉾の前身は縄文時代、あるいはそれ以前よりあり、魚のすり身を竹に巻いて食べていたという。その形が蒲(がま)に似ているから「蒲鉾」の名称になったと言うが、板につけられるようになっても古く、安土桃山時代には文献にも登場すると言う。 では、どうして板付になったかと言うと、この板が製品になった時の蒲鉾の水分を吸いこむ。そして蒲鉾の乾燥に合わせて水分を出し入れして、長期間一定の水分量を保つと言う。それによって腐敗を抑える効果もあり、この木材の特性は、金属や樹脂などでは実現不可能だと言う。 蒲鉾を食べた日には、蒲鉾板を残してほしいと頼む。しかも切り落としたままでほしいと言う。切った後板は洗わないでほしいとお手伝いさんに言う。怪訝な顔をされるが、その理由は言えなかった。それは、蒲鉾板を持ち寄って何かを作ろうとした時に、年長者が念入りに板をチェックし、板に微かに残る蒲鉾を探しているのであり、見つかればそれを小刀でうまく切り取っては食べていた。その時のしてやったりとした顔を忘れられない。板に残る匂いを嗅ぐ者もいた。 そんな年長者の一人に数十年ぶりに東京駅でばったり会った。向うが見つけてくれて姓でなく名で呼んでくれた。驚いて声の方を見ると、確かに面影が残る板の蒲鉾を削り取っていた年長者で、身綺麗なスーツ姿で急いで駆け寄ってきてくれた。「今日は時間がないから、今度東京に来た時はここに電話して」と名刺を渡された。 「ありがとうございます。是非、お邪魔します」 そう私が言うとすぐさま人ごみに消えて行ったが、その名刺には大手銀行の教育部部長とあった。後ろ姿に、どうぞお元気で、と言いながら決して訪ねていかないと思った。蒲鉾の残りかすを削り取っていた彼はどこにもいそうになかったからだ。どれだけ自分を殺せば、蒲鉾のかすなど食べずに生きていけるのだろう、と寂しく思い、人に何度もぶつかられながら佇んだままだった。