2013年12月1日 更新 〇八 水車 クルクルクルクル回る。澄んだ水の流れを受けて、小さな水車が回る。緑の水車が私の意識をグルグルグルグル回してしまう。乱したくも汚したくもないのだが、意識のどこかで自分の意識が制御できなくなっておろおろし、川上に飛び込んで波を起こし、水車を駄目にしてしまう不思議な行動をする。 「もう、止めて。いじわる・・・」 優しくたしなめられて、下に名前をつけられでもすれば、そのまま水に仰向けに倒れ込んでしまう。たしなめられたのは、その奇矯な振る舞いでなく、自分の暴れ出した意識だった。 暴れ出したと言っても、乱暴な振る舞いをして肉体で表現するのではなく、今までにない意識だから、それをどう鎮め、あるいは納得していいかわからないからだ。それは何々が欲しいというような具体的な欲望で無くて、求めているのか、求めていないのかが普段の意識では分からず、日常の普通の意識の基盤が揺れているように、自分ではその意味が分からなかったからだ。 いかにも腕白さを見せつけるように、イタドリを折り、?(しが)んで、ペッと吐きだして子供ながらに粋がっていると、少女が土手にかがみこんで太いイタドリを両手で折った。あんなに太いところは蛇が入っているかもしれないぞ、と、そんな事態を待ち望んでいたりして、そうなれば、彼女を助けないといけない、と身構えたりしても、そんな思いは空振りで、少女は、筆箱の中から出してきた鉛筆削り用の小刀で、イタドリを十センチほどに切り、その両端を均等に割った。その巧みな動きをする小さな手に意識を奪われた。その両端に切り込みを入れたイタドリを、流れに取り残されている淀みに浮かべた。そして、そのままにして、少女は小刀を持って、近くに生えていた篠竹の所にでかけた。意識はそっちにも引っ張られたが、目は、淀みの中のイタドリを見ていると、イタドリの割られた先端がクルリクルリとカールした。その頃は、カールすると言うような言葉は知らずに、まして、後年、母が弁当箱に入れてくれたウインナーの飾り切で作った蛸(たこ)などを知らなかったが、両端が蛸足のようになった。 「おぉ」 彼女にすっかり奪われていた意識が、目の前で命を得たようにカールしたイタドリに驚いて声に出した。少女は細い竹を持って戻ってくると、それを両端が蛸になったイタドリの空洞に慎重に挿し入れた。そして中央にイタドリの蛸をさした竹の両端を持って、少女は淀みから数歩進んで、せせらぎのところにしゃがんだ。そして流れにその竹を入れると、唖然としていた私の意識をクルクルクルクル回してしまった。いやイタドリが水車となって回った。クルクルクルクル回った。水が透明だったから、緑の水車が勝手に回っているように思えた。少女が回していると思った。 小さな水車の驚きが、少女への驚きに変わり、近づいて覗き込んだ私を見上げて、少女が微笑んだ。その微笑みが意識に溶け込まなかった。溶け込むにはあまりにも美しかったのかもしれなかったし、何か尊いもののように思えたのかも知れなくて、私はそれを子供流の翻訳で孫悟空のように乱暴で表現することしかできなかったようだ。 それ以来、彼女がイタドリの水車を作ると、上流に飛び込んで流れを乱すようになってしまった。たしなめられたかったのかもしれないし、たしなめられる前に、今日はもう止めてよ、という表情が欲しかったのかもしれなかった。今、思うと、少女もまた私が邪魔されることを喜んでいるように、懲りずに何度も何度も水に浮かべた。そうではなかったとしても、そう思いたい自分は半世紀たっても変わってはいない。 その日から水車は何をしても何を考えても、クルクルクルクルと巻き込んでしまって、水車は小さな手に、そして美しく微笑んだ少女に奪われてしまった。そして毎日の行動が少し乱暴になった。言葉数が少なくなり、弟にお兄ちゃんがおかしいと両親に言っているのを聞いた。 後年、微笑む仏像と尊ばれる仏像を何体か拝見した。しかし、どれも最初に水車を水に浮かべて、近づいてきた私を見上げて微笑んだ美しさには勝てないと思った。あの柔らかさは像では無理だとも思った。赤子が意味もなくにっこりと微笑むと、お地蔵さまが笑わせていると言う。あの時少女は、水の精だったか、いや神そのものとして微笑んだのだと思う。それが大きすぎて、あるいは優しすぎて意識が受け止められなくて、乱暴で答えていたに違いない。 それから長く透明な川など見なかったが、私の中に川は流れ続けていた。そして今もなお意識の隅に、イタドリの水車はクルリクルリクルリクルリと回っている。他の意識を引きずってしまうこともなくなった。万華鏡となって幼い日々を輝かせてくれることはあっても。