2015年1月14日 更新 新年第一回に言い忘れた『ほぼ週刊ぼちぼち連載』の弁解 2015年の幕開けも日本列島は豪雪で凍りつく。 世界も日本も周りも物騒な時代。 いかに「時事に対する興味がしずかに流れさっていく」とはいえ、こんな連載が何の役に立つのか、という思いもあることは確かだ。しかし、恐らく2015年は、天動説が地動説に転換する以上の大転換の時代の始まりと思う。しかもその大転換が、世界と人間をはじめとする命の成り立ちの新しい解釈であるならば、少しは齧っておかないと、と思う。 「ゴミ屋敷」という家がある。 住んでいるにもかかわらず、家の中はもちろん周辺にゴミを山積みしている家で、しばしば報道され、社会問題となってきた。しかし、「精神医学の見地では、強迫性障害において、異常行動のひとつの類型として『収集癖』が生じることが報告されているが、ゴミ屋敷の発生理由については定説がない」そうだ。「強迫性障害」とは「不合理な行為や思考を自分の意に反して反復してしまう精神疾患の一種である」そうだが、発生にいたる背景を幾つかあげているが、それを引用させてもらって、自分のゴミ屋敷がどの理由からかを考えて見てもらおう。 「失礼な。私の家は整理整頓行き届いて、掃除もきちんとやっています。ゴミ一つ埃ひとつないですよ。ゴミ屋敷だなんてとんでもない」などと言っていただいても、間違いなくあなたはゴミ屋敷に住んでいるのですから、長い引用に付き合ってもらうべきである。 いちいち点検してもらえれば話はしやすいが。引用は「ウィキペディアの『ごみ屋敷』の『発生にいたる背景』」からである。ここではなぜか「ごみ屋敷」とひらがな表記。 「自分の所有地にゴミ類を不法投棄されることに対する怒り」 「地域や親族への不信から、自分や財産に対して抱く不安」 「(対象は何でも良い)コレクションの達成感を得るため」 「(対象は何でも良い)処分することへの罪悪感」 「地域共同体(コミュニティ)からの疎外、孤立感」 「収集癖が病的にまで高じることによる」 「街角に捨てられているゴミを見つけると寂しそう、悲しそうに感じ、自分のところに連れてくる。『仲間』も多いので安心。ゴミを捨てろというのは訳あって自分のところに身を寄せている仲間を見捨てろというのと同義。古くからの知り合いに囲まれて暮らしている自分を非難する方がおかしい。ゴミと言うな云々、という精神状態で、ゴミ取集を加速するケース。 「経済的困窮(家電リサイクル法対象四品目の安価な引取り)」 「古物商による在庫増加に伴う管理の不行き届き」 「近隣住民による空家、空地への不法投棄(ごみ屋敷が整地再開発され、新築物件として転売された後も不法投棄の悪習が抜けず新居者とトラブルになる場合がある)」 「注意欠陥障害などの精神疾患。先天的なドーパミン分泌不足等で入浴や掃除などが億劫になる」 読んでいただけば、自分がゴミ屋敷に住んでいることが分かったと思う。 「えっ、おかしいのではないですか。私は清潔で綺麗な、それに言わせてもらえば少々贅沢な家に住んでいますが、ゴミ屋敷なんてとんでもない。まして経済的困窮者でもありませんし、古物商でもありません。それに正常に生活をしていますから、どこからみても精神疾患でもありませんし、ドーパミン不足でもありません。馬鹿らしい」 そう思うだろうが、やはり、改めて、「ゴミ屋敷に住んでいる」と言わざるを得ない。それは明らかに精神疾患だと思えるが、見渡す限りの人がそうしているから、多数者の異常で正常のように誤解しているだけだ。だから、「強迫性障害」が、「不合理な行為や思考を自分の意に反して反復してしまう精神疾患の一種である」とすれば、大方の人が「強迫性障害」を患っていると思える。 ここまで言ってもまだ自分がゴミ屋敷に住んでいると思えない人は、相当に重症だと思わないといけない。だから、「強迫性障害」を読み変えてみよう。「不合理な行為や思考を神の意に反して反復してしまう精神疾患である」と。 しかし、次を読んでもらえば、頑固に自分がゴミ屋敷に住んでいないと主張していた人も納得はしてもらえる。ゴミ屋敷は意識である。腐った生物も袋に入っているからといってそのままにし、あぁ、その服はいつか着ることがあるから捨てたくない、などと叫び、それは命より大事よ、素晴らしい思い出の品だから。自分の過去を記録しているようなものを捨てられますか。 そうしたゴミは物質ではなくて、意識である。そう思えば、理由の最初の「自分の所有地にゴミ類を不法投棄されることに対する怒り」は、「自分の思いに合わなかったり裏切られたりして、自分の意識を踏み躙られたことに対する怒り」だとすれば、そうしたものがうずたかく積まれていることに気付いてもらえるだろう。 親の教え、親戚からの忠告、地域の評判、幼稚園から大学、あるいはそれ以後も続く記憶だけを価値として押し付けられた膨大な知識、何かを求めて書物や講演やマスコミと渉猟(しょうりょう)して積み上げた知識、さらには、将来への不安や恐怖までを加えると、意識の家はゴミ屋敷でしかなく、正常な暮らしなどとうていできることはない。物質で埋まったゴミ屋敷と同様意識のゴミ屋敷も新たな意識を入れる可能性はない。 テレビ画面でゴミの中で平然と生活する人を見て、眉を顰(ひそ)め、顔を背け、吐き気まで催すことがあるかもしれないが、自分のゴミ屋敷もまるで一緒だとは思わない。しかも面倒なことに精神疾患であるから、物質のゴミ屋敷のように人手と人数で片づけられるようなことはない。 これは大事なんだ、私の命なんだと、排除されるゴミの山の上で、ゴミを抱きしめながら泣き叫ぶ住人、それは意識のゴミ屋敷の住人と何ら変わらない。むしろ自覚症状が全くない上に、目に見えないから、さらに異常かもしれない。 【写真】『産経ニュース』2012.8.27悪臭がただようゴミ屋敷