2014年12月31日 更新 やがて、8760時間という一つの区切りが終り、新しい8760時間がやって来るというのに、時間なんてどこにもない、などといえば、またまた顰蹙を買うかもしれない。 しかし、世界の仕組みの中に時間は存在しなくて、過去も未来もゼロ・ポイント・フィールドにたたみこまれているなどといわれると、なかなか理解しがたいが、いずれにしても時間は人間が作ったもので、時計の文字盤やデジタルの数字にあるようにはどこにも存在はしていない。 そんな馬鹿な、さきほどがあり、やがてがあり、昨日があり明日があり、明後日もあり、それに今年もあったし、来年もやってくる、などと言われても、それをそうだとも言いづらい。 というのは、恋人と待ち合わせして、恋人が遅れてくる5分は、待っている人の意識の中に刻まれているだけで、現実に時間が一刻一刻後ろに捨てられていくようなものではない。むしろ一切は時間のない状態、プランク時間といわれる10のマイナス43乗秒とかに生起しているだけで、あとの一切は、それを遅れて認識するだけで、その遅れが時間になる。 それは不思議なことでもなんでもなく、弁の不都合とか冠動脈の梗塞でもない限り心臓は休みなく動く。停止するまで動く。決して現在動いている心臓があと3年で止まるぞ、などとは思っていないだろうし、それを寿命といえば、誰も正確に示せるわけでもない。余命三か月ですと医者が宣告しても、その三か月も絶対的な尺度でなくて、それからずいぶん生き延びる人も多数いる。 他でもない私も今夜が山だ、と言われて予想に反して危篤状態を脱し、その後でようやく生きられそうになった矢先、残念ですが、この病気発症からの最長生存時間は一年と三か月ですと、再び宣告されたが、どうした間違いか、もう十五年も生きさせてもらっている。 健全な状態の肉体はいわば永遠に生きる。心臓がそうであるように、病気とか怪我で停止しない限り時間を限って動いてくれているわけではない。それなのに老化し、衰弱し、死んでいくのだが、それは完璧な肉体に意識が時間を持ちこんでしまうのだろう。特に、子供の成長や孫の成長を自分の老化に読みなおしてしまうようなことで、人間はどんどん年を取って行く。 そうそう、除夜の鐘で世界が清められるわけではないだろう。 いや、あるのかな? 音波と言うか音の響きが滝のマイナスイオン効果のようになるのかもしれないが、少なくとも視覚に映ずる世界は変わらない。だが、どこか新鮮に見えるのは、まさに意識のせいである。 もちろん、除夜の鐘を聞いたからといって、108つの煩悩が消えるわけでもない。 108の除夜の鐘を聞きながら心して新年を迎えたいというより、信念をすっかり捨ててしまうべきかもしれない。今までの世界が少しも満足のいくものでなければ、他でもない自分自身の信念に間違いがあるのかもしれない、そう思い直すのが信念、いや新年かも知れない。そう自戒を込めて思う。 わけの分からないものに付き合って下さって、感謝。 どうぞ、良いお年をお迎えください。 精神医学者エリザベス・ターグは、「常識的な考えがすぐれた科学の敵」であるというが、優れた科学を歯こぼれしながら齧っている。来年も常識的でない考えを、ありふれた言葉で書く努力の連載は続けましょう。 【写真】「ほらぱれっと」さんより、あまり可愛いので。 日本猫の頭にミカンを乗せた、ネコ鏡餅のフリーイラスト素材