2014年12月12日 更新 人間の真実の存在の瞬間、それが仮にプランク時間といわれる十のマイナス四十三乗秒で、その現在と思われる瞬間に人間という形態形成場で光のパターンとして形成され、それがプランク時間という一瞬だけ存在し、たちまち波動となって宇宙の一切の波動に戻り、再びすぐさま私という人間の形態をなすとしよう。言ってみれば、人間をはじめ物質は、プランク時間の幅で生起する波動なんだろう。これが真実の人間存在と言い切れないかもしれないが、限りなく近いことは間違いないだろう。 そして、その真の存在、まるで仮想ではあるが「実在」する形態の影が他でもない私たちの肉体となっていると考えよう。また、そう考えることが間違っているかどうか、それはその後の自分自身の試み、そして実践、さらには絶えざる営みとなればおのずと証明される。それ以外に、それが正しいかどうかの証明は不可能であり、科学的という閉鎖系で意識を介入させない価値基準ではどうにもならない。簡単である。諦めてもらうより仕方がなく、怒り、悲しみ、嘆き、恨み、そして未来に不安と恐怖に苛まれるいつもながらの「人間らしい」営みを続けることである。 今、諦めるといったが、あきらめることは、単にいつもながらの「人間らしい」感情に翻弄された幼児性の抜けない(といっても本来幼児は神であるが、それも大人が駄目にしてしまっているが、その駄目にした後の幼児であるが)意識でもって、人情味あふれるとか、喜怒哀楽に富んだ人間などと褒められ、あるいはわがままだの自分勝手だのと陰口をたたかれながら生きていくことだけではない。諦めて、再び「人間らしい」道に戻ってはいけない。 そこで、人間の真の存在、世界の真の営みにかかわれないと諦めたとしても、次にすることは、元に戻ることではない。 「旧(もと)の木阿弥(もくあみ)」に戻っては何もならない。それはいつか来た道、いつも来た道、ついつい戻ってしまう道で、そのままずるずると三途の川への退化傾斜を転がり墜ちる。死んでから地獄行くという幸運には恵まれないで、生きている間に地獄で生きることになり、挙句は、そのまま日常の生きる意識さえ失って、地球上で最も不思議で疎ましい存在となって、肉体がくたばるまで生き続ける。 では、諦めてどうするか。それは人間の真の営み、世界の存在の真の営みを邪魔しないことである。 「邪魔などしていません」に始まり、「人間がそんなものなどとは知るはずもないから、邪魔なんて頭にも浮かびません」まで、それが邪魔をしていることなのだとは思いもつかない。「邪魔などしていません」という意志や意識が邪魔をしてしまうのであり、そうした人間の真の姿を考えようともしない未成熟な、退化した意識がそもそも邪魔をしているのである。 「それでは何も考えられないではないか」とか、「人間の証は意識を持つことなのに、それを放棄してどうして人間の価値があるのか」とか、「ものを考えないで生きていけば、それは死を意味する」とか、「人間らしさ、自分らしさをなくしてまで生きていたくない」とか、最悪の場合は、「美味しい物を食べ、綺麗な衣服を着て、豪邸に住む。そうした贅沢こそが生きる目的なんだ」とまで言うに違いない。きっと言いたくなるに違いない。 一度も、何も、ポケットのゴミさえ捨てようとしないのに、いかにももっともらしくそう言うに違いない。それはそのまま、勇気のなさと不安と恐怖、そして無知を晒しているだけなのだ。 真の人間の存在を日常の存在と錯覚している真の存在の影を、プランク時間の真の存在に重ねることが出来れば、まさに「神」たりえる。世界を創造し、維持し、発展させ、進化(人間の意識のみ進化の対象だが)させる「神」、「創造主」の波動に共鳴でき、世界の一切と一体になれる。いや、それどころか自分こそが世界を作っていることが分かる。言い換えれば、世界を作れるのだから、まさに「神」である。物質は言うまでもなく、意識といわれる情報の一切を捨てること、それが「神」となる方法であり、一切を所有するから、個人としての所有物を持たないのである。 簡単な法則である。自分というものを、物もものごとも意識も持つとすれば、それは自分自身を一人の個人として、いわば閉鎖系の存在として、世界の真実のありようである波動を拒んでしまう。自分の自分らしさを顕現したのなら、今、日常的に考えている自分らしさを一切捨てることで、本当に自分らしさが出てくる。 意識は間違いなく多次元であり、個人的意識から宇宙の極限の意識まで広がるが、意識の次元は心臓の弁のように、一方にしか開かない。自分だと錯覚している物やものごとや意識が無なくなればなくなるだけ、神の血は入ってくる。 いかに最新の医療機器を駆使しても、人間のプランク時間での存在のありようや、その刻一刻の変化など見られることはない。 最も身近で、最も知られていないのが、他でもない自分の身体である。肉体はとにかく人間存在については、まだまだ天動説的な非科学的な状態で手探りしているにすぎない。PETもMRIも日進月歩の医療機器の発達も、手探りのヒントを助けるだけで、生きている意味や目的どころか、その摩訶不思議な神秘的なシステムについてもほとんど分かってはいない。