2014年7月10日 更新 第二十八回(最終回) 「だから京都は消滅してしまったのです」 龍行は自分で発言しておいて、自分で納得していた。 「さきほど、創造することは神の思いを思うことだといいましたが、それがひとつで、もうひとつは、神の思いとは人間個人の思考や感情を入れないことで、情報とかエネルギーとかがやって来るということですが、本当はどこからかやってくるようなものではなくて、私たちがこのままで世界であることを認識することだと思います。いい方を変えれば、個人は全体の一部であり、また個人の中にも全体がありますから、今、このありのままで、世界であると分かれば、そのまま浮かんでくるもので、どこからか来るようなものでないということです」 「じゃ、このままでいいということは、何も修業をしなくてもいいということですか」 山上の問に龍行は一瞬戸惑ったが、やがて意を決したように言い始めた。 「修行の是非は議論の多いところですし、ろくすっぽ修業などしないで、何をいっているか、といわれるかも知れませんが、京都盆地が無くなった今ですから、敢えていいます。修業が人間を進化させ、それによって人類全体が少しずつ進化してきたならば、京都も消滅するようなこともなかったと思います。失礼かもしれませんが、修業して自分の宗教的な位置が上昇すること、批判を覚悟でいえば、組織内の地位を上昇すること、そうした思いが皆無であっても、自分のために修業された方が多数だと思います。その修業が激しければ激しいだけ肉体的苦痛で個人というものの枠組みを強化します。いいえ、そんなことはありません。激しい苦痛の中だからこそ、世界の、いや宇宙の存在の全ての平和と進化を考え祈っていました、などとおっしゃるかもしれません。しかし、本来神の一部であり、神が我々の中に存在するとすれば、肉体という個々人に分離されているものに苦痛を与える必要があるのかどうか、と思います。厳しくなればなるほど、自分が世界の一部であることを認識さされるのであれば、修業の意味と価値はあります。護摩行は焔と一体になるためのものでしょうし、滝行は、水と一体になるためのものではないでしょうか。それだから肉体には火ぶくれができても意識は熱くないのでしょうし、頭蓋骨から鎖骨、背骨までを落下する水で打擲(ちょうちゃく)されても優しく撫でられているように思えるのでしょうが、そうした修業者の思いを聞いたことはありません。ですから、このありのままで世界とひとつであることを認識すれば、人間が進化すべき頂点ともいうべき位置に一足飛びに到達できるのではないでしょうか」 「そうか、世界がひとつであれば、他者は自分であると考えられるから、それこそ慈悲ですよね」 「一切がひとつであれば、そこに区別や差別が無くなり、差が無くなるから、まさに差を取る、差取りで、それが悟りでしょうか」 林田と山上が自分に納得させるように言った。 「世界がひとつの時、あなたが口癖のようにおっしゃる、世界の人間が一人残らず、宇宙の存在の一切が幸せにならない時には、自分が幸せではありえない、ということが当然だということですね」 北原さんがたまらないように言った。 「それは宮沢賢治が『農民芸術概論綱要』の序論でいった『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』ということですね」 北原さんも敬語になっていた。優貴が燃えるような瞳で北原さんを見詰めていた。 「それは共産主義とはまた違うのだろうね」 山岡先生が龍行に聞いた。 「根本的な違いは、物は条件に過ぎないことで、基本が意識にあるということです」 「馬鹿にも分かるようにお願いします」 鹿原の声だ。 「まず人類史では、原始共産制というものがありました。この狩猟採集社会では、主たる人間の営みは、食料の獲得で、いわば生きるために一切を共有していたのですが、原始共産制は、生きるための素材、特に食糧が乏しかったからです。いわば物の不足が根本にありました。次のマルクスなどが説いた共産主義は、その基本に生産手段の所有か非所有かのような、物的な不平等を平等にしようという理論であり、またそれに基づいて国家形成を試みた所がありました。試みというのは、ほとんど全ての国でその制度は骨抜きになり、資本主義化が進んでいます。しかし、資本主義がベターなわけではなく、『物』を基準に考えてきたことが間違いだけで、もしも京都共産制が始まるとすれば、それは意識の共有であり、財産の平等による共有が先に来ないということです。どうも昔の共産党のイメージがあるから京都意識共有制という言い方そのままがいいかもしれません」 「キューバは共産主義の成功した稀有な国家ではないですか」 戸山が言った。 「おもしろいことに、キューバは、様々な場面で、物資の不足に、しかも極度の不足という困難に直面し、不足していることで共通していました。その上、教育を重視したカストロの政策で、人々は学び、自ら考え、生み出すことが出来るようになりました。今、世界で医療や医薬品、そしてエネルギーの分野で最先端を走っているといわれますが、おそらくキューバが他の共産主義を目指した国々と違っていたのは、あまりにも貧乏で、分けあわないと生きていけなかったことと、それがどれほど人間にとって大事なことかを徹底して教育してきたのだと思います」 「そうか、意識の共有、しかも人間がひとつだという共有が根本にあるかどうかなんだ」 山岡先生の発言に、珍しく優貴が口を開いた。 「それは奥さまを尊敬される山岡先生ならお分かり頂けるように、女性的に子宮で考えるというか、大地に深く根を降ろして考えるか、ということです」 山岡先生の奥さんが優貴の言葉に続いた。 「男たちが空理空論を戦わせている時代は終わりました。これからはその崇高な考えを日々の暮らしの中で生かせなければなりません」 「その意味では、あの集合住宅は第一歩ですね。良くできていますし、意識が共通という点で快適です。こんな気持ちになるのは初めてという嬉しい感じです」 北原夫人がすでに崇高な理論が日常化できる場があることをいったが、全員が頷いている間に声がした。集合住宅を作ってくれた土田支社長だ。 「ですから、我社はこの白川での第一棟をモデル住宅として建てさせていただくように社長が言いました。もちろん無償です。あの集合住宅は住宅の概念を変える未来住宅だということでしたが、さらに、我社の建築で、その意識を日常化していただくためです。明日から早速取りかかります」 「我社からは、共有していただけるフリーエネルギーの車を、まず五台提供させていただきます」 一緒にやってきたのは、自動車を作ってくれた中村社長だ。 「土田さんには失礼だが、星火燎原(せいかりょうげん)ですな」 北原さんの言葉に土田社長はニコニコしながら解釈した。 「星火燎原といいますと、星のような小さな火でも、些細(ささい)なことでもほっておくと、手におえなくなるということですね。小さな火ということで、失礼とおっしゃっていただきましたが、とんでもないです。巨大な未来の灯りです」 「そうですよ、小さな努力が徐々に力を増し、侮(あなど)れなくなることをいう言葉で、私も大好きですが、集合住宅が暮らしの、私たちのフリーエネルギーの車が文明の新しい灯りになってほしいですね」 中村社長もここぞとばかりに胸を張ってそう言った。 「いつも神代が申している解釈も面白いですよ。本人は言わないでしょうから、私が代弁しますと、小さい火でも、でなくて、小さい火だからこそ、それが目につかない間にじわじわと燃え、やがて、野を焼きつくすほどに大きな火になるということです」 山上が龍行の目を伺いながらそう言うと、龍行はさらに解釈を広げた。 「広い野原でも、小さな星のような火が落ちた時点で、全体が焔と化すことは決められていると思うのです。ぶすぶすと燃え移るように見えながら、実は野原全体に秘められている火が顕現するのではないか、と思うのです。ですから、集合住宅を始めることは、すでに世界全体がそれをモデルとしてくれることは間違いないと思います。そこには、ただ人間の意識が介入し、意識が介入しますから時間が関わってきます。見てる人全員が野に火をみれば、星火瞬時燎原だと思うのですが」 「そうすると、その鍵を握るのは、やはり人間の意識ですか」 山岡先生が聞いた。 「ええ、私たちが想像している以上に人間の意識というのは素晴らしい力を持っています。もちろんその意識が人間を低次元に閉じ込めることもありますが」 龍行はいつもの持論を述べた。 「意識はあなたがおっしゃる天との媒体だからですね」 「さすが優貴さん、よき伴侶。その通りだと思いますよ」 珍しく北原さんが笑顔で龍行と優貴の会話に入ってきた。 「京都に都を造営して、千百年の間、首都として生きてきまして、その後、東京に首都を奪われ、あらゆるものが京都中心であった時代から、伝統工芸の匠の家系、芸能の本家や宗教の本山などが首都機能を引き継いでいるといえば引き継いできましたが、かといって、そこに本来あるべき首都機能としての意識の共有などは望むべくもありません。ですから、衰亡の一途といわざるを得ません。だから今こそ、京都から日本列島進化の火をつけねばなりません。その火は、新しい天地創造といいますか、天地進化のための火で、私たちは自分自身を無にするといいますか、全体の一部だということを認識して、全体である神ともいうべき一切の存在と意識が発する源の思いを思い、神ともいうべき存在であれば何をするのかということに全身全霊を開いて受けて行かねばなりません。そしてそれが唯一、私たちが何の後ろめたさもなく幸せだと感じられる世界に向けての出発です。そのために当分の間は、いや、私たちの生を全うする間は幸せを感じることが出来ないかもしれませんが、それでもそれ以外の生き方はあり得ませんし、それだけが人間を創られた意味であり価値だと思います」 龍行の決意に全員が言葉を飲んだ。軽々しく同意を言葉にするには全員を包んでいる雰囲気は厳かだった。そして目の前に広がる京都は、明らかに消滅前の京都と違っていた。京都は地獄に通じる都市から、天国に通じる都市として、人間の首都として造営されるのだ。従来の京都は、確かに暮らしの一枚下に地獄を抱えて、六道珍皇寺の井戸から小野篁(おののたかむら)が行き来したのかもしれない。しかし、その井戸が消えた以上、またすぐ井戸のような浅いもので行き来出来た地獄は、地中深くに吸い込まれ、マグマで焼かれて消滅していったのだろう。まさに地獄火は地獄そのものを焼くものだった。 地獄は消滅した。それはとりもなおさず、地獄道(じごくどう)・餓鬼道(がきどう)・畜生道(ちくしょうどう)・修羅道(しゅらどう)・人間道(にんげんどう)・天道(てんどう)という六道輪廻が人々を支配するために編み出されたものに過ぎないことを暴露した。 地獄道も餓鬼道も畜生道も修羅道も、本来神の創造された世界にあるはずがない。一切が豊かに光り輝く世界を創られたはずが、まさに人間が地獄の苦しみを作ってきたに過ぎない。それこそ基本的に生物として生きるために使うべき脳の十パーセントに満たない能力で、人間の、人生の一切の機能のように使ってきたからに過ぎない。その十パーセントしか使わない脳には、本来、誰もが自由に豊かに享受できる衣食住を、一方で独占し、一方で独占するから当然生まれる欠乏を正当化するために、衣食住の獲得を政治や経済の目標のように設定し、そのためにまた新たな不正を積み重ねてきた。その一方の不合理な独占のために、自らの欠乏が自らの能力不足、心がけの悪さのように教え諭(さと)し、欠乏ゆえに苦しみ悩むことを「迷い」とし、その「迷い」の人生は、地獄道や餓鬼道や畜生道や修羅道に転生するとし、これらの六道で生死を繰り返すといってきたが、とんでもない。死ななくても、この世界そのものが、地獄道や餓鬼道や畜生道や修羅道であり、どこにも人間道や天道などありえなかったが、今から天道のみが開かれる。 今、京都が消滅した。京都が消滅し、個人が個人で幸せを追求すれば、それが人生の価値であり意味であるような嘘とそれによって作られてきた一切の仕組みと組織と建造物とありとあらゆる物が消えた。 そして京都は、今、白川の河川敷から、一万数千年前に始まって原点に繋がる。当時、人々は、烏(からす)のように「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持た」ずに生きていた。それは神が養ってくださったからだ。納屋も倉も持たないから、たかだか十パーセントに過ぎない脳を誤用して、自分だけの富を独占することもできない。もちろん個人が独占するという意識が、世界がひとつの意識だと真に認識していれば、ありえない。だからこそ神は京都盆地という場所に、太古の人々を住まわせたのだ。自然豊かで、四季折々の季節がそれぞれに充実している京都、当時は海も近く山に囲まれ、海の幸、山の幸が季節の旬ごとに美味しく食べられた。人は、火焔土器(かえんどき)のように、日常で宇宙のエネルギーを取り入れる方法を知り、その道具は、日々の暮らしに使いながらかつ芸術の域まで達していた。 そして何より人間は自然と共生していた。そしてそれだからこそ、「烏」のように生きられるのだ。自然に敵対し、自然を征服しようとするから、人間は長く「烏」にも劣った暮らしを強いられていた。また敵対し、征服しようとするから、囲い込み、独占し、支配することができた。 今、杉や檜の単林はごっそりと引きずり込まれ、止めどなく増え続けていた竹林も地滑りによって消滅してしまっていた。今、剥き出しの山肌に、やがてこなら、椚(くぬぎ)、樫(かし)、赤松(あかまつ)、榎(えのき)などが芽を出し、育ち、京都盆地が美しい雑木林に囲まれる日も遠くない。山桜が春を飾り、紅葉と銀杏(いちょう)が秋を縁取り、文字通り錦繍(きんしゅう)の京都が美しい意識の首都として輝き始める。春におおいぬふぐりが、夏にかわらなでしこが、秋にひがんばなが、冬にほとけのざが花々の先鞭をつけ、盆地が常に野草の楽園と化す。 烏が笑っている。鳶も鳩も雀も、ありとあらゆる鳥が彼らを囲み、その後ろに、京都を巡る山々に住み、人々と共生していた猿や鹿、猪、それに狸なども続いていた。いつの間にか、自力で脱出していた犬や猫も姿を表し、今、ノアの方舟の一番目の舟が、白川の扇状地に横付けされたのだった。 「神代さん、何か聞こえません」 「ええ、聞こえます」 「我々より先に暮らし始めている人がいるのだろうか」 「いや、彼らの言葉を良く聞いてください」 確かにその声が次第に大きくなってきた。それは従来の京都ゆえに、「飢え」「行き倒れ」「惨殺され」「自死し」「放置され」「見捨てられ」た多数の千二百年間の亡霊たち、度重(たびかさ)なる地震や大火で逃げ遅れた犠牲者や、四条河原、三条河原で処刑された反逆者や、新撰組に斬殺された人々や、髑髏(どくろ)原をはじめ、あっちこっちの野から出土した夥(おびただ)しい人骨と、無縁仏と、嵯峨野の竹藪で筍をほおばっていただけなのに、役人の勝手で撃たれて殺された月輪鹿、心無い飼い主に捨てられて捕まり処分されたアライグマが、車に轢(ひ)かれた猫たちが、円山公園に集結し、今、坂道をスクラムを組みながら下り、水が引き始めて次第に姿を現してきた元の四条通に向けて、シュプレヒコールを始めたのだ。 「地獄などないぞー」 「この世こそ天国にするぞ」 【おしまい】