2014年7月6日 更新 第二十五回 (十三) 和服の裾を少し絡(から)げ、袖を少したくし上げて、手首の上の眩(まばゆ)く白い腕を見せながら盛り塩をする女将は逃げてくれたのだろうか。 あの一枚板の自慢のカウンターに花を咲かせるように鱧(はも)を置いてくれた料理人も逃げてくれただろうか。あの使いこんでちびてしまった包丁も持って出たのだろうか。 これ以上でもこれ以下でもない味の塩梅をしてチリメン山椒を焚いてくれた女性は逃げてくれたのだろうか。 大きな釜で夢の星を作ってくれる金平糖の職人はどうだったのだろうか。大きな釜も持って出てくれたのだろうか。 アスファルトの亀裂から芽を出した菫に水をやっていた楚々とした女性は逃げてくれたのだろうか。 街角のお地蔵さまを掃除し、水をかえ、花を供えていた優しそうな老婆は逃げ延びてくれたのだろうか。 早朝、誰もいないゴミ集積場を綺麗に掃いていてくれた白髪の男性は逃げ延びてくれたのだろうか。 道を尋ねた観光客を、その店まで案内していた店主は生き延びてくれたのだろうか。 河川敷の市民農園のそばを散歩していて、突然、兄さん、大根持って帰るか、と見知らぬ私に大根を三本もくれたお母さんは元気で逃げてくれたのだろうか。 こちらが刺身の醤油を一滴落したのに、「えらいすみません」と自分の不始末のように謝りながら拭いてくれた板前さんは逃げてくれたのだろうか。 陽がとっぷりと暮れても、ラッパを吹きつつ豆腐を行商していたおじさんは逃げてくれたのだろうか。 荷物を運んできて、健康まで聞いてくれた優しい宅配便のおじさんは逃げ延びてくれたのだろうか。 英語で答えながら、素晴らしい笑顔で案内をしていた交番の女性警官は生き延びてくれただろうか。 どんなに近所の人に叱られても、深夜にそっと野良猫の餌を置いてくれるおばさんは助かったのだろうか。 ええ、一緒に檻の中で寝ました、とこともなげにいい、病気の動物を救った飼育員も動物を連れて逃げてくれたのだろうか。あの動物園には多数の動物がいたが、犬のように放すわけにもいかないから、早くから園長と何度も交渉したが、信じてもらえなかった。動物の皆さん、爬虫類の皆さん、そして檻に入って飛べない鳥さんたち、本当にごめんなさい。 糸が切れる直前の音が最高の音ですと言い切った、和楽器の弦を作っていた匠は逃げおおせたと聞く。 漆を何度も何度も塗りながら縄文からの日本列島の技を芸術作品にまで高めた匠も逃げおおせたと聞く。 和蝋燭を一本一本手づくりをしていた匠は早々と脱出してくれたと聞く。 念を籠めるからか、それを使うと運が開け、うまくいくという印を彫る匠も逃げたと聞く。 机の上から落した場合、外側の箱は壊れても、中の茶器は割れない、とこともなげに言っていた指しもの師は後継者に促されて京都を離れたと聞く。 音もなく筒まで滑り落ちる蓋の絶妙の滑らかさを打てる茶筒の匠は逃げてくれたに違いない。金槌さえ持ってでてくればいのだから。 文字通り水も漏らさぬ木の桶を作る匠は、江戸時代から乾燥させているという材木を移してくれたようだから、ご自分も離れてくれたと信じたい。 縄がらみという手法で、釘一本使わずに鉾を建ててくれた棟梁は… 庭は犬も遊ぶところだからと、伝統的な庭を犬が楽しめるようにした庭師は… ソメイヨシノが嫌いな世界の桜守は… 時代劇で着る着物の裾が捌(さば)ける衣装を縫える人は… ただ一回のポンという音のために数十分を待つ鼓の師匠は… 舞台や御座敷だけでなく、四六時中舞っていた舞踊の師匠は… 「カマエ」で視線を束ねて、「ハコビ」で観る人全ての視線を引き連れる能の師匠は… ヘリコプターを比叡山の中腹辺りから東山の上を飛ばせながら、龍行は眼下の京都を眺めていた。そして、京都を作ってくれた人が一人でも多く逃げ延びてくれることを祈った。 京都という場所は滅ぶかもしれない。しかし「京都」は残る。龍行は「京都」というものが、目の前で今まさに消えようとしている建造物や美術品や庭園などのことではなかったのかと何度も考えた。その幾つかは世界文化遺産であり、国宝であり、重要文化財である。そして、いかに修復技術や模写の技術が発達しても、それに刻まれた時は創れない。偶像崇拝とはいえ、人々の祈りが収斂し重層し籠り、その芸術的な価値を越えた存在になっている仏像。春に咲く花はもちろん、秋の枯れ葉の行方(ゆくえ)から雪で撓(しな)う枝ぶりまで細心の心配りで作り上げ、まるで庭師の「心馳せ」を感じさせてくれる庭。目の中にナノレベルの差金を持つ宮大工の技が秘められた建造物。そこに所蔵されていたが、愚鈍な管理人によって持ち出されなかった彫琢(ちょうたく)を極めた美術品や芸術品。 こうした世界に誇れる人類の遺産ともいうべき「物」が目の前から消えていく。消えていくことを手をこまねいて見ていなければならない。何が間違いだったのだろうか。そこには保存し次代に伝えるべき価値というものがなかったのか。いや、類(たぐい)まれで何ものにも代えがたい価値があるものを、越えるものは何なのか。もしそれが無くて、こうして全てを消滅させる意味は何なのだろうか。 旋回して、まだ大きな変化をしていない京都盆地を俯瞰して、龍行の頭は盆地の底を這いずりまわるように意識を巡らせていた。パイロットが市内上空に入りたがっていたが、山岡先生が、いや、いましばし事態の推移を見なければ、と慎重に押しとどめていた。万が一、盆地そのものがドスンと落ち込むようなことがあれば、東西十キロ、南北二十キロあまりの土地が落ち込むのだから、上空の空気にも影響がないことはない、そう山岡先生は思っていて、パイロットの逸(はや)る心を抑えていた。 龍行は千二百年という時間に繰り広げられた営みを回り灯籠のように巡らせながら、建造物や芸術品や庭園や料亭や、そうした「物」や「場」を消滅させてしまう意図が何なのだろうかと煩悶していた。考えていたというような簡単なものではなかった。目の前に起こるだろう事態を予想しながら思考を巡らせていたから、それは「患(わずら)い悶(もだ)える」と表現した方がいいからだった。 「もの」には価値がない。しょせん、いずれは滅びていくものでしかなく、単に宇宙の創生から滅亡までの間に、ほんの一瞬姿を現すだけで、それに価値を置き、執着することは無駄だ、という大胆な考えも浮かんだ。確かに「もの」としては極めて優れていても、その「もの」を創った人の「精神」こそが珍重すべきことを教えるからだろうか。かつて錬金術師は卑金属を金などの貴金属に変え、人間を不老不死にするために生涯を賭けたが、金を創ろうとする過程で錬金術師こそが錬成されて、完全な存在になったといわれる。だから、錬金術を広義で表せば、「金属に限らず、様々な物質や、人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す」といわれている。 そういう意味からすれば、「京都」は、「金属に限らず、様々な物質を完全な存在」にすることはできてきた。これ以上、いかなる技も、いかなる足し算も引き算も不可能な、この状態でしかありえないという芸術品や工芸品、さらには食品や料理を作り上げてきた。しかし、「人間の肉体や魂を完全な存在に錬成する試み」は、千二百年このかた「京都」に満ち溢れていたとは、とうていいい難い。その「もの」の素晴らしさ、高さに比べて、精神はそうした努力を全くしてこなかったとさえいえる。いや、一本の木を仏像にまで彫ることが出来るように、人間の精神を彫り、磨き、より高いものにすることなどあり得なかった千二百年とさえ思える。宗教の総本山が居並びながら、真の宗教者の評判は聞こえてこない。一切の組織から離れ、一切の物を持たずに、ひとり鴨川河川敷で座禅を組んで、一切衆生を救済した人が居たとは聞かない。居そうな気配も皆無である。 『源氏物語』『枕草子』を持ち出すまでもなく、多数の文学的作品が生み出されたが、その描写される人間のありようが、さすが千二百年で進化したものだ、と思える作品は登場していないし、今もなお千年の昔の心理描写が素晴らしい、とか、人間の機微に触れる傑作だとかもてはやされることからしても、千年前と同じ精神のありようでしかない証拠ではないか。 ほぼ完璧、完全な「もの」を作り上げる才能は、決して個人のものではないのだろう。存在の全てが生じている情報とエネルギーの場から、必要なものが、筆に、ノミに、筋肉に降り注いできたものに違いない。その媒体たりえる人が天才という名をほしいままにする。そうなれば、いかなる「もの」も天とでも呼ぶべき場からの現実化であれば、「もの」そのものに拘泥(こうでい)する必要はないのかもしれない。己(おのれ)を空(むな)しくして、天からの情報とエネルギーを頂戴できる人間さえいれば、いかなる「もの」も再び三度(みたび)創れるに違いない。 今、盆地が巨大な皿だとすれば、京の料理人たちは、その上に季節をあしらい、産地を吟味した食材で、修練を重ねた技によって、これ以上でもこれ以下でもない、押しつけも物足りなさもない味を醸し出して、人を感動させてくれるが、今「京都」は極上の料理を食べつくしてしまうように、皿の上には何も無くなってしまう。だが、料理人がいる限り、その料理は再び三度(みたび)作ることはできる。 「そうか、千二百年とか千年とかの時の重みに惑わされてきたのか。しかもその千二百年とか千年とかいう歳月が、人間の精神の進化にはまるで培養器になりえなかったのだ。神はそれを人間に教えようとされているのか」 そう龍行が、「京都消滅」を納得したと感じた瞬間、林田の声が機内に響いた。 「盆地が沈んでいます。東山の山際に赤土が帯になって露出しています。さらに沈下し始めています」 先ほどは肉眼では見えなかったが、今、確かに山裾が小さながけ崩れのように帯になって山土を露出している。北山、西山は目視できないが、間違いなく南を残して周辺の山々と切り離されているのだろう。 この状態になっても、龍行はひとりでも多くの人が脱出してほしいと思っていた。いかに信念を変えたがらない人でも、地鳴りのように続く振動と、まるで地球の自転が感じられるようになったような動きで、事態が尋常でないことを感じているに違いない。しかし、今、脱出できる道が盆地の外と中とで、次第に段差を作っていることは知らない。上空から見ると、岩盤だと思われる四条より北が次第に沈みこんで、白川通りは修学院あたりで、宝ヶ池に向かう道は松ヶ崎あたりで段差が見え、もはや車で北に向かうことはできないだろう。 深泥池が南の淵で今段差になったのだろう、滝のように水が落ちている。紫野と鷹峯が上下に引き離されているように見える。しかし、鷹峯も安全ではないだろう。紫野が沈んで行けば、どんどん引きずり込まれるに違いない。どうか逃げてください、山裾まで車を乗り付けて、東海道遊歩道でも林道でも、とにかく京都盆地を出てください、そう龍行は祈った。 幸い、南は軟弱な地盤が幸いしてか、緩やかに傾斜しつつ沈下を始めていたから、国道二十四号、竹田街道、油小路、国道一号線、一七一号線などで、全速力で南に向かってほしい、そうも祈った。 すでに鴨川の水の流れが逆方向になった。やがて桂川も流れを変えるだろう。だが、不思議なことに御所周辺で御所の異常に気付いた少数の人以外には、ほとんどの人々が普通の生活を続けているように見える。おそらく道路には小さな罅(ひび)割れが入り、建物もどこか歪み始めているに違いなかったが、道路には車が走り、オフィス街の電気はついたままで、人々が働き続けているに違いない。 「山岡先生、この静かな状態は何なのでしょうか」 「私もいろいろ考えていたんだが、御所がマンハッタンのようなひとつの岩盤に乗っていたとしよう。それがさらに地下の異変で落下したとしよう。おそらく陥没によって落下したのだろうが、それが御所を落下させた陥没部に蓋(ふた)をしたのではないだろうか。そうすると、本来、その穴にどっと流れ込む水が少しずつ漏れているような状態だから、全体の水位が下がりつつあっても、琵琶湖から流れ込んでいる水が補っていることもあって、こんなに静かに沈んでいるのではないかと思うのだが」 「山際を見ない限り、市内の沈下はわかりませんね」 「地球が猛スピードで回転していても我々が気付かないように、このあまりに静かな沈下はよほど感性の鋭い人、勘のいい人でないと気付かないのでしょうな」 林田が残念そうに言った。 「いや、感性の鋭い人、勘のいい人はきっと逃げだしてくれているから、自分のこと、いわば自分の思考や信念や感情が自分だと思っている人々しか残っていないとすれば、段差が数メートルになり、電気やガスなどのインフラがストップして初めて異常に気付くのだと思いますよ」 龍行はさらに残念そうに言った。 「もしも、今、琵琶湖の水が補っていてくれることが止まり、水が大量に穴に流れ込むようなことになれば、こんな穏やかな沈下ではなくなる」 「瀬田川洗堰(あらいぜき)で琵琶湖の水位を調節しているとなると、そこで放流を止めれば、落ち込みますか」 戸山が聞いた。 「いや、瀬田川は市内の中心部に直接入ってきていないから、むしろ琵琶湖疏水で、この取水口が閉鎖されるまでは流れ込んでいるのだろう。しかし、それもそう長くは続くまい」 山岡先生が顔を曇らせてそう言った。 「このまま静かに沈んで行って、地下帝国に通じればいいのですがね」 滅多に精神世界や超常現象に興味を示さない山上の言葉に龍行は驚いた。 「鞍馬が地下帝国シャンバラの入り口のひとつだともいわれていますから、京都はまんざら地下帝国と無縁でないと思いますが」 山上が続けると山岡先生が柔らかい言葉になって感慨深げに言った。 「その種の話しが本当だと、世界はもっと早くに変わるだろうな」 そんな論議をしている間も、盆地内部は静かに沈んでいる。まるで京都の匠が作った茶筒の蓋が滑り落ちるように沈みこんでいる。静かに滑るように、しかし確実に少しずつ沈みこんでいる。東山、北山、西山山麓に住む人は、その異変に気付いているだろうし、今、少しずつ段差が大きくなって、あちこちの山裾で地滑りが起こっている。竹林がそのままずり落ちるように山際の住宅に覆いかぶさり始めた。わずかな段差も積み上がっている土のバランスを崩せば、山肌は一気に崩れ落ちる。その状況を観察するために、ヘリコプターは慎重に東山から北山、そして小倉山上空へと峰の上を飛んだ。 山際(やまぎわ)の異常と共に、注意深く観察すれば、川が異常である。鴨川の逆流が、水位が市内の中心部ほど低くなってきたことからうなづけるように、嵐山の渡月橋付近にも異常な光景が見えている。保津川は、渡月橋の少し上流の堰で段差があり、近年は水力発電などを行っている。その段差から、渡月橋の下流の次の堰の段差までが大堰川(おおいがわ)であるが、京都盆地の地下の構造のせいなのか、上の段差はそのままだが、渡月橋の下流の段差は次第に大きくなっているようで、その土手罧原堤(ふしはらづつみ)の道路と直角に亀裂が走っているようだった。良く見れば、あれほど沢山いた鳩も鷺(さぎ)も鵜(う)も鴨も鴛鴦(おしどり)も烏も鳶(とび)も居ない。そうすれば、オイカワ、ウグイ、ウナギ、ハス、それにアユ、貴重なアユモドキ、ヤゴやゲンゴロウやタガメは逃げたのだろうか。あの場所で息をひそめて棲息していたオオサンショウウオは清滝に戻ったのだろうか。 段差が次第に大きくなってきた。運悪く段差の上に建っている建造物が、ゆっくりと傾斜し始めた。もしも、何も感じず、何の情報にも接することなく、ただただ人間は金儲けして贅沢に生きればいい、などと思って、応接室をヨーロッパの家具で埋め、食器棚にブランドの食器を並べ、いかにも知られた名画を飾り、どう見ても似合わない葉巻きなどふかし、ここまで良くやって来た、自分で自分を褒(ほ)めてやりたい、などと贅沢な昼食のあと、しばしの休息をしているような男のソファーがぐらりと傾いたとしよう。男は厚い段通の上に放りだされ、地震だと思って豪華なテーブルの下に潜りこむだろう。そして一旦は太い猫足にしがみつきはするが、その後、地震のような激しい揺れもなく、そっと机の下から部屋を見渡せば、段差が丁度応接室の中央の真下なのか、名画が斜めになり、壁に明らかな亀裂が走っていることを知る。 「そんな馬鹿な、ここは、地層も調べて、東京のように、昔のため池や沼や池、あるいは谷を埋めて作った住宅地ではないのだが」 男は口に出して飲み込めない事態に慌て始める。 「おおい、これは、何だ、何だ」 広い家でも家中に聞こえるほど凄まじい叫びをあげる。恐怖がそのまま声の大きさになったのだろう。 「テレビ、テレビ、地震速報、地震速報」 つけたテレビは相変わらず見慣れたタレントが並ぶ戯(たわ)けたバラエティで、いくら待っても地震速報などはない。 「何だこれは、何が起こったのか」