2014年7月4日 更新 第二十三回 (十二) 凄まじい音だった。激しい落雷が幾つも起こったようだ。いや、京都の中心部に起こった音だから、御所に原子爆弾か水素爆弾が落されたのかもしれない、そう思えるような、今までの記憶にはない凄まじい音だった。 それはこうして始まってしまった。 犬や猫を収容しようとした三日目の朝、御所に駐車しようと烏丸通りから右折しようとしていた時、指揮車が小刻みに揺れ始めた。龍行は同乗していた山岡先生の顔を見ると、山岡先生の深刻な表情に先生の思いが読めた。龍行は運転をしていてくれる中村さんに言った。 「中村さん、せっかく御所まで来たのですが、どうも不気味です。どこかでUターンして烏丸通りを南に向かって下さい」 「ええ、確かに。これはエンジンから来ている揺れでなくて、地面が揺れています。ちょっと怖いですね。犬、猫も乗っていませんから、全速力で南下します」 そして龍行は全車への緊急連絡を取った。 「全車両に次ぐ。中央部で異常な振動始まる。すぐさま京都盆地から脱出するように。繰り返す。京都中央部で異常な振動発生、ただちに京都盆地から脱出するように」 「上京班了解」「右京班了解」「下京班了解」 全車が直ちに京都盆地脱出を始めたようだ。 「そうですね。もしも間違っていれば、また戻ってくればいいのだから、良い判断だ」 山岡先生は、龍行が性急かなと思った命令を指示してくれた。 「山岡先生、始まってしまったのでしょうか」 「御所がこんな小刻みな揺れを始めているのは、何だろう、そう先ほどから考えていたんだ。直下型の地震の揺れとも遠くの地震による長周期地震動でもない。今までにない揺れだ。いや、揺れというより震えだ」 「山岡先生、水が小さな穴か亀裂に落ち始めて、次第に穴そのものを大きくしている時に発生する振動のような気がしますが」 「そうだとすれば、大惨事の予兆だ。いずれにしても逃げるが勝ちだ。間違いだったら戻ってくればいい」 山岡先生は、間違いを祈っているように、「間違いなら戻ってくればいい」と二度も同じことを言った。龍行もまた間違いを祈りながら、烏丸通りを南下させている指揮車のスピーカーをオンにし、優貴が吹きこんでくれたメッセージを最大のボリュームで流した。 「皆さん、今、感じていらっしゃる微動は、京都が沈没する前兆です。一刻も早く、京都盆地から外に出てください。京都盆地は数百メートル落下して消滅します。皆さん、逃げてください。皆さん一刻も早く京都盆地から脱出してください」 そのメッセージを流しながら、五条通りを左折して、東に向かった。この脱出経路が御所からは最速であることを確かめていた。三条通りから蹴上のコースの方が距離は短かったが、東山三条を越えるまでの混雑が予想されたからだ。 「指揮車へ連絡。下京班は、五条通りを東へ。間もなく東山トンネル。トンネル前で待機します」 「西京班、今、千代原口交差点を通過、間もなく老ノ坂(おいのさか)で京都脱出できます。少し遠回りですが、京都盆地を迂回して戻ります」 「東山班、すでに東山トンネル目前。トンネル前で待機します」 「中京班、五条通りを東進中、間もなく東山トンネル。下京班、東山班と合流、路肩に停車」 「上京班、山中越えを目指して白川通りを横断。間もなく脱出」 「左京班、途中越えを目指して、今、三宅八幡通過。間もなく脱出」 「右京班、国道一六二号を北に、福王子通過。間もなく京都脱出完了」 「北班、柊野別(ひらぎのわか)れから京都産業大学前通過。間もなく脱出完了」 「南区班は油小路から南下し、間もなく京都盆地を脱出します。南周りで集合住宅に戻ります」 龍行は、そのたびに了解、了解と言っていた。そしてすぐにでも逃げだせる東山トンネルの前で停車した。すでに下京班と東山班と中京班のトラックが停車していた。龍行はその後ろにバスをつけてもらい、車から降りて、京都市内を見てみようとバスの屋根に上った。山岡先生もついて上がってきた。 屋根に上がって、二人で同じ方向を見ようとした、その時だった。 バスが大きく揺れて龍行と山岡先生は振り落とされないように屋根の柵に掴(つか)まった。二人は何も言わずに急いで後ろの階段を降り、バスの中に戻った。そして、モニターの前に座って、市内の映像に切り替えた。幾つかのビルの屋上にカメラを設置させてもらっていたから、各カメラを引けば市内のほぼ全域が見えた。山岡先生も龍行も何も言わずに懸命に画面を眺めて、どこか異常を発見しようとしていた時だ。バスが踊るように跳(は)ねたと思ったと同時に、凄まじい轟音が響いた。まさに爆風でバスごと吹き飛ばされるような大音響だった。モニターのひとつ、京都の中央部、御所あたりのものが白濁した画面で何も見えなくなった。山岡先生の顔が蒼白になった、と思った瞬間、車内に林田の叫び泣く声が響き渡った。 「御所が、御所が大変です。御所がすっぽりと沈んで行きます。いや沈んでしまいました。土煙りでもはや何も見えません。烏丸通りに面した石垣が崩れ、穴の中に吸い込まれています。いや、丸太町通りもそうです。今出川通りに面した石垣も立ち上る土埃の中に雪崩れ込んで行きます。あぁ、御所が御所が…」 それは京都の危機を信じて大阪の会社が貸してくれたヘリコプターからの林田の報告であった。送られてくる映像には、土煙以外何も映っていなかった。 「玉砂利が吸い込まれました。桃の木も桜の木も梅の木も吸い込まれました。紅葉の木も吸い込まれました。沢山の種類がある茸も吸い込まれてしまいました。リュウさんがもの思いにふけったり、瞑想をしていたベンチも吸い込まれました。しかし、煙がもうもうと上がって、何も見えません。今の間にヘリは山科に向かいます。山科小学校のグランドに降りますから待機してください」 京都消滅のシミュレーション通り、山岡先生と龍行をヘリに乗せるためだ。もちろんそうした事態を想定して、山科小学校の校長に許可は貰っていた。許可を貰いに訪れた時、校長は二つ返事で許可してくれたが、それはそんなことは絶対に起こらないという確信からだった。国土交通省には京都消滅時の臨時着陸場として申請したが、そこの役人も、そういうことは起こり得ないからとなかなか許可をしてくれなかった。何度も申請をしてやっと許可をくれた。この役人も、そんなことは決して起こり得ないだろうからいいだろうと笑いながら許可をくれた。臨時着陸場の小学校の校庭には、チャーターしたヘリコプターがもう一機駐機していた。 山岡先生と龍行は到着と同時に着陸したヘリに乗り込んだ。下京班の潤造も乗りこんできた。もう一機は、中京班の戸山と南班の林田、そして東山班の山上が乗りこんで、バスやトラックは待機させた。 東山の如意ケ岳を越えると京都盆地のど真ん中から噴煙が舞い上がっていた。いや土埃だったが、まるで火山の爆発のように土埃が舞い上がっていた。 「あぁ…」 山岡先生も龍行もその景色にただ大きなため息をついただけで、言葉を失っていた。京都の地図の中央に緑色で示されていた京都御所が、噴煙の下でどうなっているかが見えなかった。現在は御所だけで異変が起こったようで、周辺部では轟音に驚いてもそれが自分達の営みの場である京都盆地消滅の始まりだとは思っていないようだった。東大路通りにはいつものように車が北に南に走っている。さすが三条通りは御所近辺にいた車が一斉に逃げだそうとしているためか、大混雑で、ほとんど動いてなかった。その渋滞を良く見ると、小さなものが動いている。しかも一斉に東に向いて動いている。 「カメラを三条通りに合わせて、精一杯ズームインお願いします」 「あれは犬です。犬たちが逃げているのです」 「すみませんパイロットさん。申し訳ないのですが、山科小学校の校庭に戻っていただけますか」 「了解」 誰もが何をすべきかを理解していた。ヘリコプターは急激に方向を変えると一気に出発地に戻った。もう一機も続いて着陸した。何の連絡をしなくても全員がそれぞれのバスとトラックに乗りこんで、走り始めた。 「戸山さんと林田さんは三条通りで迎えてもらいますか。私と山上さんは五条通りに参ります。中村さんよろしく」 「了解」 東山のトンネルの中も多数の犬たちが東に向かって走っていた。後から合流させればいい、そう龍行は思って、トンネルを出た所で車を止め、右京左京と他の大型犬も呼び寄せた。 「みんな頑張ってね。逃げてきた犬や猫をひとまず山科小学校の校庭まで連れてきてほしいのだが」 犬は龍行の言葉が終わるや否やもう駈けだしていた。坂の下まで下り、五条通りの平坦な場所に行くと、右京左京が止まった。他の犬たちも右京左京にならって止まった。そこが危険な場所との境界に違いない、そう思っていると、多数の犬が道路を走って来た。車は何のことかがわからず、犬や猫を轢(ひ)かないように路肩に逃げた。 ハーメルンが始まった。右京が犬の集団を引き連れて、先頭を走り、他の大型犬が左右で誘導し、最後尾を左京が走っていた。 「なまじ自動車のような便利なものを使っているだけに、こうした非常事態には厄介ものになってしまうのだな」 「京都盆地は東西十キロ少々だから、先ほどの轟音と共に自転車や急ぎ足で東山や西山目指せば逃げられるはずだ。今のところ御所以外にはまだ何も起こっていないようだから」 「犬の集団がほぼ逃げ終えれば、再びヘリに乗りますが、まだやってきています。老犬なんだ。とぼとぼと…おいで、おいで、そうそう、賢いね。こちらにきて、トラックに乗りましょう」 ウェブサイトで今回の災害が起こりそうなことを知っていた人々が、あの轟音を聞いて本当に予告されていた災害が起こったのだと思って、京都から脱出するために五条通りを車で走行してきた。そして、龍行たちを見つけると自分達も車を降りて、遅れてくる老犬などの収容を助けてくれた。龍行が彼らに犬の収容をまかせて、どんどん停車してくれる車を見ていると、それぞれに高齢者が乗っている。彼らが近所の独居老人など乗せてきてくれたのだろう。それは龍行らのウェブサイトで、「その時には、近所の高齢者と一緒に逃げてください」と何度も呼びかけていたからだ。 「山岡先生、次の変化までには時間がありますね」 「どうしてそう思うのか」 「東北の津波の時もそうですが、まず地震で警告し、津波の第一波、第二波、第三波と来ましたが、第三波が最も大きくて犠牲になった人が多かったといいます。地震発生が、三月十一日二時四六分、場所によって違いはありますが、第三波が襲ってきたのは、三時半以降でした。ですから、地震発生の直後に第三波のような巨大津波が襲ってきたとしたら、それはもう天災として、そんな場所に住んでいた自分を恨むより仕方がありません。しかし、そんな無慈悲なことを神様はなさいません。充分に逃げる時間を与えてくれていました。その時間に逃げなかった人、あるいは一旦逃げたが家に物を取りに戻ったような人が亡くなっています。ですから、今回も私たちのウェブサイトを見ていてくれた人が、頭の片隅に京都盆地消滅のことを記憶していてくれたら、先ほどのとんでもない音で逃げだしてくれるはずです。今、坂を必死で登って来る足の覚束(おぼつか)ない犬の最後を収容すれば、京都盆地は消滅します」 「それは間もなくですよ。見られる限り五条通りの西を見ましても、犬の姿はありませんし、先ほどの犬は、可哀そうに足が三本しかありませんでした。でも三本足で必死で逃げてきました。たぶんあの犬が最後だと思います」 「分かりました。では、皆さん、お手伝いありがとうございます。もう犬たちも逃げおおせたようです。どうか、トンネルを抜けてください。さらに危険が迫っています」 それぞれの車が龍行に声をかけ、龍行は丁寧にお礼を言いながら、人々を見送った。不思議なことに我先に逃げだそうとする車が犇(ひし)めき合って、東山トンネルが通り抜けられないかもしれないと思っていたが、五条通りは、いつもの車の数より少ないように思えた。犬が中央部を走っていて避けていてくれたからか、龍行の予想に反して、車が猛スピードで逃げてくるようなことはなかった。 「ウェブサイトと配らせていただいたビラで、もう逃げてほしい人々は逃げていらっしゃるのでしょう。今頃はそれぞれの避難場所で、京都御所が崩落などというニュースを見ているに違いありません。ボリビアやコロンビアのグラマロテ、それにドイツや中国で最近起こっている巨大な穴の陥没だと解説しているしたり顔の評論家を笑っているのでしょう」 「もう限界かもしれない。ひとまず山科に戻って、ヘリで上空から京都盆地に戻りますか」 「了解」 「では出発」 「待ってください。坂の下におばあちゃんが犬を連れて歩いてきます」 「わかった。迎えに行って来る」 林田がバスから飛び降りて走った。龍行も追いかけた。 「おばあちゃん、良かった良かった。一緒に逃げましょう」 林田がおばあさんに手を差し伸べた。 「いいえ、私はもう老い先短いですから、この犬だけは、ええ、マルといいますが、お願いします」 「何を言っていますか、一緒に行きましょう。林田さん悪いけど、背中に背負ってあげてくれるか、私は犬を連れていくから」 「了解」 林田が背中を向けて座って入る前に、バスが到着。中村さんの素敵な判断だ。 「おばあちゃん、バスに乗って。マルと一緒に」 「ありがとうございます。神様みたいな人たちですね」 「泣いていないで、早く乗って乗って」 林田がおばあさんをバスに押し上げている。 バスで一旦トンネルの前まで戻ると、龍行は、おばあさんと犬をトラックに乗せ、山岡先生も乗り移ってもらって、盆地脱出をさせた。もう荷台に乗っていようが違反なんていっている場合ではなかった。歩いていた人も数人も乗せて、トラックは山科に向かった。龍行は林田と中村さんに言った。 「念のため、五条通りを西大路通りあたりまで、全速力で戻っていただけますか。そしてすぐにUターンして、それを最後に京都盆地を脱出します。大丈夫です、そんな時間は待っていてくれます。今、ふと念のためにと思ったからです。意志があっても動きにくい人は助けられるだけ助けないと」