2014年7月2日 更新 第二十一回 (十一) 「突然の不躾(ぶしつけ)なお願いといいますか、忠告をお許しください。お願いと申しましてもお聞き届けいただけないかもしれませんし、お聞きいただいてもそのようにならないかもしれません。その時は、どのような仕打ちも覚悟しているつもりです。 結論から申し上げます。一刻も早くに京都盆地から脱出してください。ご親戚やご友人でも知人の方でも結構です。事情を話されて、その方の所に身を寄せて下さって、京都から脱出してください。脱出する場所がない場合は、末尾の電話にご連絡いただければ、ご相談にあがります。 何のことをいっているのか、お分かりにならないでしょうが、末尾のアドレスのウェブサイトをご覧いただけばお分かりになると思います。京都盆地にとんでもない、まさに驚天動地のことが起こります。もちろん地震の予知さえ満足にできない科学ですから、その科学的な証拠は乏しいのですが、間違いなく起こりそうです。その証拠は動物たちです。注意深くあたりを見回していただきますと、いつも何気なく見ている動物や鳥がいなくなりました。もしも犬や猫などのペットを飼っていらっしゃる方は、彼らに変わった所はないか、よく観察してください。 今、私たちは、二十一世紀の『ノアの方舟』を作っているつもりです。もちろん皆さまを乗せて海に出ていくような舟でなく、とりあえず、個人個人で京都盆地から離れていただくという『方舟』に過ぎません。それは何よりもあなたが身につけていらっしゃる目に見えないものが大事だからです。たとえ京都が無くなっても道具や場所はなんとかなると思います。しかし、あなたが長年修練・研鑽されまして会得されました技や感覚の代替物はありません。もしもあなたの境地に辿り着こうとすれば、大袈裟にいえば、京都千二百年の歴史をやり直さないといけません。おいそれと一朝一夕にできるものでは決してありません。 どうか、あなた自身に蓄えられているものを次代に継承するためにも、世界の遺産として残すためにも、どうか一刻でも早く京都を立ち退(の)いていただけないでしょうか。この事態が目に見えるようになれば、その時は間に合いません。 信じていただけないでしょうが、ここは騙されたと思って、行動に移してください。そして京都脱出が完了しましたら、末尾のウェブサイトのメールアドレスか電話にお知らせください。我々が独断と偏見でなく、種々の資料から『この方は是非』と思った方々の名簿を作らせていただきました。その名簿の方々が一人残らず、自らで『ノアの方舟』に乗っていただくことをお願いし、ご案内いたします」 「これでどうかな」 「では、早速、名簿に上げられた職人さん、芸人さん、芸術家、それに料理人や女将、思想家や、研究者など京都で京都を創りあげてきてくださった人々に配ってきます」 「会って下されば、言葉でもお願いします」 「取り合って下さらなければどうしますか」 「その文書だけ置いてきてくださればいいです。こうした事態を察知できないとか、これほどまでにいっても気付かない人は、いわば情報とエネルギーの基盤のようなものとつながらず、ただ単に小器用であったか、その芸や作品がそれほどのレベルではないのに我々が騙されたのだと思います。天才は天から受ける媒体に過ぎないのですが、自分でそれを作っていると思っている程度の芸人や芸術家ですから、惜しくも何ともありません。京都と共に消滅される運命にあるのだと思います」 「分かりました。行って来ます」 こうして山上は大量のビラを抱えて出かけた。龍行もバスを運転して、繁華街に出かけた。今日は自動車会社の中村社長が龍行のバスを運転してくれていた。すでに人出の多い場所でいわゆる街頭宣伝をやっていたが、人々の反感を買って追い返されていたが、今日は念のためというか、最後の確認として、もう一回だけ街頭宣伝をやろうとした。そして、その宣伝に反撥した人が警察に通報し、警察がやってきて中止させられ、警察に連れて行かれ事情聴取でも受ければ、ニュースになるかもしれない。それを見た人は脱出してくれるかもしれない。そう思ったからだ。 しかし、繁華街で人々を前に、スピーカーから静かに状況を説明している間は良かった。 「皆さん、ここでは何も見えませんし、何もわかりません。しかし、あなたの身の回りの動物や鳥を見てください。いつもと違うとは思いませんか。いや、姿が見えないと思いませんか。動物たちは天変地異に敏感です」 そこまでは何の反応もなかった。 「どうか動物に従って京都盆地の外に逃げてください。あなたの命が危ういのです」 この言葉が集まって来た群衆にヒステリーのような雰囲気を作ってしまった。 「ええ加減なこと言うな。京都には災害がないのだ」 「津波がくるわけじゃなく、なんで京都から逃げるんだ」 「お前らこそ死ね!」 「お前らどこの宗教団体や」 「京都人と違うやろ、お前らこそ出ていけ」 「出て行かないときは…」 次第に言葉に煽られ、人々が不穏な空気になり、誰かがペットボトルを投げつけた。窓は金網を上げていたので割れることはなかったが、その防御のシステムがまた群衆の怒りを買ったようだ。全員と思えるほど多数の人が「帰れ」「帰れ」と遠い昔にデモでやったシュプレヒコールのように叫んだ。 「神代さん、逃げますか」 「そうですね、『自分達のことだというのにわからないのは大衆の常』って誰かが言っていましたが、ここは逃げるが勝ち…」 そうしてバスが動き出すと、一斉に拍手が起こった。 「皆さんのためにこうして警告していただいているのに、人間ってなかなかわからないのですね」 中村社長は張り切っていただけに、失望も大きかったようだ。 「人間なんかほおっておきます。分かってはいたのですが、念のためにやってみました。後はハーメルンの笛吹きしか残っていません」 「それは何ですか」 「今は秘密にしておきましょう。帰って準備をしてまた出かけますから、ご覧ください。そして、その成果が大であれば、我々も京都基地を閉鎖して、集合住宅に避難します」 「何をやらかすのですか」 「まぁ見ててください。その成果があれば、社長の所も京都を離れた方がいいですよ。今度からは面倒でも伊勢から通うことになりますが」 「いや、まだ報告はさせてもらっていませんが、集合住宅に十分程度の所に会社の主要部分は移転済みです。閉鎖した町工場をそのまま借りました。社員も後始末をしている者以外は、全員移動済みです」 「そうですか、素晴らしいですね。で、中村社長はどちらに」 「ええ、滋賀県に息子夫妻がいますから、家内はすでにそちらに行っています。孫と遊ぶのが嬉しいようで、私はほったらかしにされています」 「じゃ、是非集合住宅に住んでください」 「ええ、しばらくはそうさせていただいて、参加させていただきます」 京都で街頭宣伝をして追われ、朝一番に逃げださねばならなかったから、神代はバスを伊勢の集合住宅に向かわせながら、全員と昼食を共にしたいので、集合住宅に集まるように連絡した。 北原さん夫妻と山岡夫妻に迎えられた。 「お疲れさま」 山岡先生がこう言って、北原さんらが首を数度動かせて同意を示していた。 「想像以上に人々にはわかってもらえませんでした。死ねとか帰れとか言われました」 「神代さんがおっしゃったことをそのまま返しますと、人間は自分の信念を変えるぐらいなら死んだ方がましだ、と思うのでしょうから、仕方がないですね」 「ええ、そうですが、もう一度だけやっておきたかったのです。後悔しないように。でも駄目でした。もうやりません。その代わりに午後はハーメルンの笛吹きをやります」 「私たちも手伝いたいのだが」 「そうですね、北原さんは、右近左近の活躍を見ていただきたいので、是非にご一緒に」 鹿原料理長の玄米菜食の昼食が終わると、龍行の中に意欲が湧きあがった。 「神代さんが何かやらかしそうですから、見逃せませんよ」 鹿原が彼の作った昼食に全員が満足そうだったので、機嫌良く言った。 「ええ、面白いですよ。鹿さん、料理の後始末は、お年寄りに任せて、例の犬たちもいいですか」 「ええ、訓練というかなんといいますか、しっかりやってはくれるでしょう」 「すみません、皆さん、紹介が遅れました。私の実弟で、潤造と申します。兄弟というより同志といった方がぴったりですし、我が仲間とも古くから懇意にしてもらってます」 「潤造です。娘の病気で参加が遅れましたが、今日からは御一緒させていただきます。よろしくお願いいたします」 拍手と共に、「待ってました真内」「これでフルメンバー」「良かった良かった」「あんたがいないと始まらない」と歓迎の言葉が飛び交った。北原さんと山岡先生はそれで彼のことがすっかり理解できたように、ニコニコ拍手をしていた。 そんな充実した雰囲気の中、数台のトラックのそれぞれに訓練をしたという大型犬を二匹ずつ乗せた。バス二台にトラックが七台にもなっていた。ウェブサイトで今回のことを知った運送会社の社長が、自分のところの車と運転手を貸してくれていた。もちろんそれぞれのトラックのケージは、最初の三台と同じものを運送会社が鉄工所で作らせて乗せていてくれた。もちろん運送会社の寄付である。総勢九台が並んだ。右近左近は指令車でもあるバスのトレーラーに乗せた。何か、元気一杯の感じがした。龍行と北原さん、山岡さんらが乗り込むバスは、自動車会社の社長が自ら運転した。 「中村さん、よろしくお願いします」 北原さんが丁寧に挨拶して乗りこんだ。 「中村社長自ら運転とは恐れ入ります」 山岡先生がそう言いながら乗りこむと、中村社長は、立ち上がって会釈をした。 「いやいや、社員からの報告を聞いて、居ても立ってもいられなくて、会社は社員に任せて、私が運転させていただきます。そうしないと社員と話ができませんから」 龍行の街頭宣伝にもつきあってくれた中村社長は、北原さんにも山岡先生にも仲間の一人としての誇りを持ったように、胸を張ってそう答えた。 全員が乗りこんだことを確認すると、龍行は全車に向けて今日の行動を指示した。 「戸山さんのチームは中京区へ。潤さんチームは下京区へ。林田さんのチームは南区へ。山上さんのチームは東山区へ、鹿さんのチームは左京区へ。それから早くから来ていただいた山上さんチームの山田さんチームは右京区へ。林田さんチームの大下さんチームは北区、私のとこの堀田さんチームは西京区を担当。南区は戸山さんチームの仲里さん、私と中村社長運転の指揮車ともう一台のバスは御所にいます。いうまでなく、山科区、伏見区は盆地の外なので、事態が始まっても間に合うように思います。南区も北からやってください。おおよそ三日の予定で、それでも終わらなかったらギリギリまでハーメルン作戦をします。しかし退去命令を出しましたら、何をおいてもすぐに京都を出てください。退去命令は全員にお願いします。何か異変があればその人が退去命令を出してください。警察などのトラブルはすぐ報告をください。指令車で駈けつけます」 「大丈夫です。自分達で処理できます」 と鹿原の声。 「おお、鹿さん、ハーメルン作戦を北原ご夫妻、山岡ご夫妻、それにまだ知らせていない仲間に説明をお願いします」 「分かりました。次の広い場所で停車して、運転を代わります。皆さんは先に行ってください」 そして、間もなく鹿原の説明があった。誰もがすぐにわかったようで、特に質問はなかった。京都東インターに着くと全車が別れた。 「指令車は中央の御所の駐車場にいますから、随時報告はお願いします」 「了解、了解」と言う声が届いた。 御所に向かう烏丸通りで、後ろのバスから呼びかけられた。 「すみません、中村グループですが、私たちは遊撃班で、人手の足りないところの応援にいきますし、また独自に走りますが、いいでしょうか」 「もちろんです。全てお任せ致します」 後ろのバスには仲間が誰も乗っていなくて、中村さんの会社の社員が手伝いにきてくれていた。龍行は、その人々でさえ自分で判断して適切な行動をとることが出来る、それこそがこのチームが組織の理想に近付いている証拠だと思った。 「北原さん、ハーメルン作戦ご覧になりますか」 御所の駐車場に着いたら、龍行は聞いた。 「ああ、是非、見たいね。右近左近の活躍ぶりを見せてもらいたいから」 龍行と北原さん、山岡先生はバスを降り、トレーラーの鍵を開けて、右近左近を外に出した。二匹は興奮気味だったが、龍行が「待て」と言うと、龍行の命令がいかにも嬉しいように二匹はすぐさま龍行の横で伏せた。 「中村さん、道路を渡って住宅街を歩きますが、十分で戻れる場所に居ますから、何かあれば連絡をしてください」 運転をしてくれている中村さんにそう言った。 「了解」 中村さんは、自分もこのチームに加わったことがいかにも嬉しいように大声で答えた。龍行は中村さんの元気な声に犬までが反応したように思えた。龍行ばかりを見上げる二匹を促し、信号で道路を渡ると、龍行は右近左近に言った。 「いいか、一匹でも多く仲間を連れて来てほしい。もし家に閉じ込められている犬がいれば、連絡はしておいてやってほしい。そして隙を見て逃げ出すように言っておいてね。外にくくられている犬は、たぶん外にくくられていることからして、置き去りにされやすい。そんな犬は、首輪抜けの技術を教えて、連れてきてください。いいか、わかりましたか。車に気をつけて、飛び出さないように」 二匹はワンと答えて住宅街に消えた。龍行は左近の後ろをついて歩いた。北原さんもついてきた。早速犬の吠える声がした。左近がその犬に近づくと、その犬は激しい吠え方から甘えるような声に変わり、左近を門扉の向こうで迎えていた。左近は、後ろずさりしながら首を激しく前後に振った。それで首輪を抜く方法を教えているようだった。最初は失敗したが、三度目にすっぽり抜けた。いつも鎖に繋がれていたから生垣には隙間があった。それを抜け出すと左近の側に走り寄って、左近を舐め、左近も舐めた。 「偉い。左近もあの犬も偉い」 そう犬の方を嬉しそうに見ていた北原さんは、すぐさま顔を曇らせて龍行に聞いた。 「リュウさん、飼い主が怒らないのか。窃盗罪のように訴えられたらどうする」 「いや、事前に二回、ビラを播いておきました。人間と一緒にペットを連れて京都を離れてください。もしそれが信じられないのでしたら、万が一に備えて、犬や猫を預けてください。一週間の間にご連絡のない場合は、犬をお預かりします、という内容で、預かる場所を書いておきました。しかし、ほとんど連絡はありませんでした。我々が預かる方法のハーメルン作戦は知らせていません。ですから、ビラはポイと捨てられたでしょうが、二回も播いたのですから、少しはわかってはくれたでしょうし、何か訴えられた時は、それは知らせてあるといえますし、もしも訴えられても裁判をしているような時間は残されていないと思います」 「そうだね。犬や猫の行動を見ていると、事態は切迫しているとますます思うのだが」 そんな話をしている間に、左近は六匹を連れて帰ってきた。右近は八匹も連れて信号の所まできた。二匹と集団を横断させて、駐車場のケージに向かわせた。トレーラーのケージは一杯になり、やむを得ず、右近左近はバスに乗せようとした。すると左近がバスに乗らずに御所の内部に走っていった。誰も何も言わなかったが、左近が何かをするだろうと、左近を信じていたからだ。