2014年7月1日 更新 第二十回 「リュウさん、ちょっときてください」 林田が大声で叫んでいる。急いで声のするトラックの方に行った。林田は何も言わずに猫のケージを指差した。そこには三匹の猫が寄り沿っていた。龍行が「おおどうしたのだ」と寄って行くと、一匹がニャンと鳴いた。 「野良猫だと思います。開けはなっていたケージに勝手に入ってくれたんだと思います」 「そうかそうか、君たちも分かっているのか。ドロドロに汚れて、今日まで大変だったね。今日からは餌も探さなくてもいいし、綺麗にしてあげるよ」 林田の発言には返事をせずに、猫に話しかけた。一匹が安心したのか、隅に作りつけてあるトイレにしゃがみこんだ。 「いいね、いいね。安心したんだと思う」 「今日までご苦労様でした」 「チョコとバニラとイチゴでいいですね」 鹿原が言った。 「チョコは茶色、バニラは白っぽいの、そこまではわかるが三毛猫になりそこなった色合いの猫がどうしてイチゴなのか」 後に集まっていた全員がケージを覗きこんで、それぞれに言っている。 「えっ、イチゴだと思いませんか。僕にはそう見えますが」 記録担当の鹿原が言った。 「甘いものを食べてはいけない、アイスクリームなど乳製品は日本人には合わないなどと言っている鹿さんにしては、その名前はおかしい」 林田が言った。 「じゃ、茶色は味噌、白っぽいのは麦、色が混じっているのは七味はどうですか」 「いいでしょう。台所方が主張するのですから、食べ物の名前でいいでしょう」 「住所はトラックの停車場所にします。写真OK、出発準備OK」 「では、今日は犬、猫がいますから、伊勢に向かいます」 「リュウさん、ちょっと来てください」 バスの運転をしようと先にバスに乗ろうとしていた山上が引き返してきた。 「どうしたの」 「はい、女性が犬や猫を連れてきているのですが」 「どこに」 「あのバスの横です」 すでに釣瓶落としの秋の夕暮れ、一気にあたりから光が消え、バスの横に立っている女性らしき姿が闇を濃くしているだけだった。確かに女性の感じがあった。男性ばかりのチームに女性の参加も悪くないが、どういう人なのだろうか。近づいていくと、リードに繋がれた犬が二匹見えた。そばに携帯のケージが二つあり、その横に大きなスーツケースがあった。顔はまだ見えなかったが、龍行は数メートル手前で立ち止まって、思わず身震いした。身ぶるいと共に、熱いものが足元から一気に背骨を駈け登り、薄闇の中にも関わらず、その女性の顔がはっきりと見えた。実際に視覚に映じた顔なのか、それとも記憶の中の顔が意識の全面に広がったのか、それは龍行にもわからなかったが、間違いなく顔が見えた。 「あぁ」 龍行の声はついてきた全員を驚かした。それは驚きだけではなく、悔恨のようでもあり、静かな喜びのようでもあり、龍行の心情を測りかねる複雑なため息だった。女性が口を開いた。後ろについてきた仲間にはまだ顔は見えていないに違いなかった。 「この犬二匹とこのケージの中の猫二匹を収容していただけないですか」 「ええ、どうぞどうぞ」 返事のできなくなっている龍行に代わって、後ろから鹿原が答えた。 「ありがとうございます。では、犬と猫をよろしくお願いします。そして…もしよろしければ私も収容していただけないでしょうか」 女性の突然の申し出に戸惑ってか、誰も返事はしなかった。人間の場合、それぞれの家族や親戚、友人のところに避難してもらうことにしていた。独居老人で生き先の無い人は、一時預かって、周辺部の高齢者施設に収容してもらうことにしようとしていたから、人間を収容することはなかった。全員が固唾(かたず)を呑んで龍行の返事を待った。 「お待ちしていました。今回のプロジェクトの目的の大きなひとつは今達成できました。ありがとうございます」 龍行の返事が意外だったことと、龍行が深々と頭を下げたのが奇妙に思えた。これはただごとではない、誰もがそう思った。 「ご紹介します。この人は工藤優貴さんです。私の同志であり、前世の妻であり、ムー大陸の住人であり、私が最も愛する人であり、このプロジェクトを始める前まで、私を最も信頼し、支援し、支持してくれていた女性です。しかし、このプロジェクトを準備する前からなぜか愛の形が変わったように思い、関係が希薄になったように思っていました。今考えると、このプロジェクトに全てを捧げなさいと、私からの愛にさえ答えることを遠慮するような感じがありました。私もその彼女の思いを無駄にしないで、このプロジェクトに一切を捧げるために、山岡先生を最初に訪問してすぐ離婚届を出し、家も出ました。それは彼女との事もあったのですが、それ以前から、私の言うことを一切信じようとしなかったからです。今回も早くから説得をしていたのですが、生まれ育った場所を離れたくないといって、私の存在そのものも価値の優先順位から脱落していくような感じさえしました。すでに何度も言っていますように、その人をいかに妻だとか夫だとかいってもその人の信念や思考の枠組み、そしてそこから出てくる考え方は変えられません。ですから、元妻と比較して、私はこの女性がどのように判断し、どう行動するのか、毎日考えていました。彼女の優先順位はどうなっているのだろうか、そうも考えていました。ですが、今のいで立ちを見ると何が最優先すべき優先順位であるかがわかりますし、このプロジェクトを完全に理解してくれているように思えます。皆さんさえ了解してくだされば、今後一緒に活動させていただきたいのですが」 「意義あり」 鹿原がひときわ大きな声で言った。皆が驚き、龍行が思いがけない返事に戸惑って、どう言おうかと思ったが、龍行の返事を待つまでもなく鹿原は大声で続けた。 「犬と猫はお預かりします。しかし、人間、とりわけ女性については、簡単に了解できません。しかもその女性は私たちには初対面です。リュウさんが、この人がいかに大事かを私たちに示していただかないと了解できません。そのために私たちの前でハグしてキスをしてください。それが出来れば了解します」 「意義なし」 全員が一斉にそう言った。そういうことか、と納得しつつも龍行はしぶしぶと両手を広げて、彼女を受け入れようとした。 「意義あり」 また鹿原だ。 「私が女性の持っているリードを預かります。猫のケージも預かります。えらそうに両手を広げて彼女を待ち受ける。それは許しません。リュウさんが待っていらっしゃったのなら、自分から行ってください」 「異議なし」 笑い声が混じりながらそういう声がした。龍行はそれに押されて、彼女のすぐ前まで近寄り、そして「ありがとう、待っていたよ」そう小さく言うと、彼女を抱きしめた。自然に唇が重なり、長い抱擁が続いた。二つの影がひとつになったままその影の周りが全て静止していた。しばらくして彼女の犬が吠えなければ、永遠に続くようにさえ思えた。二人は犬に言われて抱擁を解いた。一斉に拍手が沸き起こった。すっかり陽が落ちて仲間の顔が見えないのが幸いだと龍行は思った。 「犬二匹、猫二匹、確かに預かりました。集合住宅に着き次第に資料を作ります。なお、女性の方、そうそう工藤優貴さんでしたね。優貴さんは集合住宅四階の東の端の部屋、四百号に収容いたします。スーツケースはバスに乗せます。あなたは集合住宅までバスで護送されます。監視に神代を当たらせます。彼の扱いに文句がある場合は、いつでも告発してください。必ず善処いたします」 「よろしくお願いします」 鹿原の発言に、彼女はにこやかに返事した。その顔は皆に見せたいような美しく優しい笑顔だったが、光が乏しくて、龍行だけが笑顔を味わっていた。彼女は知らなかったが、その四百号は龍行の部屋だった。全員から異議なし、出発という声が闇の中で広がった。どこか晴々とした声であった。 龍行は先に乗りこんで、バスに乗ろうとする彼女に手を貸した。彼女は、小さくありがとうと言って乗りこんできたが、乗りこんで来ても手を放さなかった。龍行も強いて放す理由がなかったが、座らせるために手を放した。手を握って歩いたりしたことがなかったから、何か惜しい感じがした。彼女を促して会議用の机を周り込んでいるソファーの一番奥に座らせた。龍行が横に座ると、彼女が手を探して、机の下でしっかりと握った。それが左手であることを後悔した。それを一瞬感じとったのか、彼女は初めて龍行だけにわかることを小さな声で言った。 「ううん、こちらがいいの。透析のシャントの手だと、ビリビリ電気が走っているようで、私は感電しながら繋がっているように思うの。愛も電気でしょう。私たちは電気という言葉しか知りませんが、私たちの知っている電気の機能を発揮するには、何か媒体がいりますが。人間の場合は体でしょうか」 辛うじて龍行に聞こえるように言っていたが、周りの仲間の耳が優貴の口元に集合しているように聞き耳を立てているのがわかった。龍行は、優貴との久しぶりの会話に、真面目に答えた。それは皆に聞こえて良いように思ったのか、優貴ほどに小さくなかった。 「愛は電気だというか、電気の一種だと思います。世界を構成しているものは、個体、液体、気体の三つだと思っていますが、実はもうひとつ、それらを作り動かせるものがあります。それが電気というか、電気もその一つであるエネルギーの発生源というか、プラズマのようなものだと思います。これを日常的には愛といえばわかりやすいのですが、しかし、愛が物質や物事を生み出す基本的なエネルギーだとはなかなか認識できません。愛といえば、男女の愛、親子の愛などと個人と個人、あるいは個人と何かの精神的な結びつきをいうように思っていますが、そんなことに限定されません。ですから、今日までの関係の希薄化は、個人の愛さえ、世界をまるごと包んでいる愛には圧倒されるのだと思います。そしてたった今、個人の愛と世界の愛が量子理論でいう全体の中の部分であり、その個人的な、いわば部分の愛に全体が含まれているという関係になります」 優貴が手を強く握り返した。 「個人の愛に全てを捧げても、それはそれでいいわけですね。全体の愛にも反映するのでしょうから」 そう小声で話すと、またまた鹿原が会話に割って入った。 「ちょっと待った。監視人の声の音量は我々にも聞こえるから許されるが、護送される工藤優貴、あなたも我々に聞こえるような音量で話すことを命じます。内緒話は許せません。我々は歴史的瞬間に立ち会っているのですから、二人の会話をしっかりと聞いておかないといけません」 「異議なし。そうでないと、机の下でしっかり繋がれている手を放させます」 優貴が慌てて手をはずして、珍しく真っ赤になった。きっと誰も知らないだろうと思っていたようだった。 「護送される優貴さんに警告します。勝手に手を放さないように。目下護送中ですから、監視人にしっかり手を握らされないと、憲法一〇八条、流れている愛という電流を個人の判断で止める権利はないという条項に違反します」 最初から全部聞こえているのだ、そう思うと龍行は優貴の手を探して、机の上からさらに上に掲げて言った。 「監視人神代、工藤優貴の監視のために、やむを得ず手をしっかり握っております」 優貴はじっと下向いたままだったが、決して気を悪くしているようではなかった。むしろ握りしめている手から龍行は熱いものが感じられた。一人への愛が独占的な、排他的な愛である時、その愛はどこかに腐蝕した部分があり、決して全体を包んでいる神のような愛と共鳴することはない。しかし、今、優貴を迎えてくれた龍行と仲間の愛は、そうした個人的な愛を遥かに超えたものと感じられた。俗っぽくいえば、「うしろめたくない愛」とでもいえる、そう優貴は思っていた。 「うしろめたい愛」には、いろいろある。他の誰かを不幸にする時もそうだろうし、地球上で苦しんでいる人間がいる場合もそうだろう。そうしたことを考えると、どんなに満たされた愛でも「うしろめたい」はずであり、またそうでなければ、その愛に純粋さはないと思わないといけない、そう優貴は思いつつ、愛することで「うしろめたさ」が消えていく方向にあればいいのかもしれない、そうも思っていた。地球上の全ての人間だけでなく、全ての存在、植物も動物も含めてであるが、そうしたものが本当に幸せに生きていない限り、一人の幸せは成就しないに違いない。だから、龍行を支援することで、龍行への愛の方向を確かなものにしたいと思っていた。 優貴の中でいろいろな思いが巡っていることを感じていた龍行は何も話しかけなかったが、それは全員に伝搬して、しばし車内に話声が途絶えた。運転席からマイルス・デイヴィスの曲が流れてきた。個人それぞれが自分のパートを自分の思うように演奏しながら、全体でひとつの曲を奏でている。今、我々もそうなのだ。個人個人が自分の思うことをやりながら、それでいてひとつのことをしようとしている。それを具体的な言葉で表せないが、もし表現するとすれば、「愛」という言葉でしか表わせないことなのだろう。その意味で、マイルスのトランペットが個人的な愛を奏でていたとしても、そしてソロでの演奏も素晴らしいとしても、ピアノ、ベース、ドラム、さらにはサックスやフルート、あるいはパーカッションを加えれば、一段レベルの高い音楽を演奏するように、一人ひとりの愛が同じ方向を向いている時、それらは共鳴し合って、ひとつレベルの高い愛を表現していくのだろう。全体に部分があり、部分の中にも全体があるという量子理論のいうものごとの原理的な構成こそ、愛によって実現することが出来る。 それは『心身の神癒』で、マクドナルド・ベインが言っている言葉である。 「この力が個人々々に別々に独立してあるのではなく、人類全体の中に全一体として内在していることを認めた時、それはあなたたち一人々々のために個別的な働きをするのである。あなたたちの裡(うち)にあるこの力の全体性かつ完全性に気付くにつれて、あなたたちはそれを実感し、それを直接に知り、遂には愛そのものとなる」(第十話) 誰も口をきかなかった。それは気まずい沈黙とは正反対で、個人個人の距離をマイルスの音楽が埋めているというか、マイルスの音楽によってできた液体の中に全員が心地よく浸っているという感じだった。優貴は香水やオーデコロンの香りが強かったわけではなく、香水を振りまいていることはなかったが、車内全体に優貴の香りに満たされているように、心地よい時間を共有していた。「私はあなただけを愛しています」という当たり前の愛の表現でさえ、人間が生きるレベルを上げると変わってくるのだろうか。「私はあなただけを愛しています」といっても、それは全ての存在への愛の中にあり、個人への愛があるから世界全体の存在への愛が生まれ、世界全体への愛があるから個人への愛がより深まるのだろう。 そうした愛の場が消滅するだろう事態は、愛を感じている人々には、是非、分かってもらいたい。そして一刻でも早く京都盆地から避難してもらいたい、龍行はそれを愛の思いで感じていた。