2014年6月27日 更新 第十七回 (九) 「北原さん、申し訳ないことなのですが」 頭を下げていた龍行が頭をあげ、そう静かに切り出した。山岡先生と仲間四人と共に北原さんを訪問していた。 「経過報告を致しますと、東山の山裾の道の電柱がほとんど西に傾き、嵐山の山裾の道の電柱はほとんど東に傾いていました。この二つから山岡先生と協議し、京都盆地の中央にあります御所の壁に罅(ひび)を見つけました。そこである事態を確信しまして仲間に声をかけました。すると彼らはすぐさまその意味を理解してくれて、その予感を裏付けるための調査にあたってくれました。水の豊富な京都盆地の中央部分で井戸が枯れ、周辺部では水量が減り始めていました。また京都には数少ない温泉で珍重されていました源泉がどれも枯れました。また他に水で知られた場所にも異変が起こっていました。しかし、それから一ヶ月がたちますがそれ以上のことは起こっていません。御所の壁は修復されて、今ではどこにも罅がありませんし、確かに枯れた水は戻ってはいませんが、それ以上の事態は起こっていません。残念ながら私たちの予感は当たっていないようで、千二百年前にこの地に都を定めた桓武天皇、そして桓武天皇にそれを奏上(そうじょう)したいわゆるブレインや占師たちが正しかったようで、この地は金剛不壊(こんごうふへ)の地だと思われます。それに平安京造営の前に鞍馬には北からの霊気を頂戴し、またこの地は四神相応と言われる、北に玄武の船岡山、東に青龍の鴨川、西に白虎の山陰道、南に朱雀の巨椋池などの平野と対応した理想の地だといわれてきましたが、その先人の考えは正しかったのだと思います。しかし、北原さんには、膨大な資金援助をいただき、すでに新しい集合住宅を建設し、機動力と装備万全の二台のバス、犬、猫などを収容するトラック数台などに使わせていただきました。本当に申し訳ないことをしました」 「神代さん、いやお仲間と一緒にリュウさんと呼ばせて頂くが、リュウさん、それに山岡先生、そしてお仲間も同じ意見なら、大きく二つの考え違いをしている」 北原さんの言葉に、正座をしていた全員がさらに背筋を伸ばした。 「まず、膨大な資金援助などしたことはない。あれは神代龍行という作家の作品を買っただけで、あなたがたのやっていることに資金援助をしていたわけではない。ついでに言っておくが、神代龍行の作品で、私と神代とがどこで道を違えてきたのかが分かった。あの青春時代を書いた長編小説と同じ思いを持ちながら、私が物を持つ方向に、神代が捨てる方向に進んでしまった。いや、この話は長くなるから、集合住宅で囲炉裏を囲んででもやろう」 龍行は、自分の作品への評価と、物を持たない方向ゆえの悪戦苦闘を思い起してか、大粒の涙を畳に落とした。北原さんはそれを見逃さなかった。 「二番目の話をする前に、その神代さん、いやリュウさんの涙を拭(ぬぐ)って貰おう。いや、拭(ふ)かないで、待って」 北原さんの涙を拭うな、それを拭う人がいるという発言に興味を持ち、全員の緊張が緩んだ。 「おおい、純子さん、あの鍵をはずしてください」 北原さんは大声で廊下の向こうに叫んだ。 「はあい、分かりました。すぐ致します」 明るい元気な声が帰ってきて、北原さんは立ち上がった。 「リュウさん、縁側に座ってくれますか。皆さんもリュウさんの後ろに座って見ていて下さい」 龍行は何が始まるのかと興味を持ち、立ち上がって縁側に座ろうとした。うっかり涙を拭こうとして北原さんの言葉を思い出して止めた。 「さぁ、やってきますよ」 そう北原さんが言うと、庭の向こうから白い塊が二つ、勢いよく走って来た。全員がおお、と叫んだが、龍行は両手を広げて迎えた。二匹は龍行を押し倒さんばかりの勢いでとびかかり、巨大な舌で顔中を舐(な)めまくった。二匹の犬が、まさにまっしぐらに龍行に向かっていたことを不思議に思い、しかも長年連れ添った人に再会するような喜びように驚いてもいた。 「よしよしよし。そうか会いに来てくれたのか。嬉しいね。生きていてよかったね」 そう龍行は何度も言うと、はじめ北原さんの「涙を拭うな」という言葉を守っていたが、愛おしさに次の涙が零れていた。 「いい光景でしょう。皆さんは、リュウさんがうちに来てくれた時に可愛がっていたのだと思うでしょうが、この二匹に会ってもらうのは今日が初めてです」 「えっ、そうなんですか、さすが動物大好きのリュウさんらしいですね」 「いや、鹿原さん違うんだ。初めて会って抱いてくれているだけで、初対面ではないのだ」 「ええっ、どういうことですか」 龍行以外の全員が同じ気持ちで北原さんを見詰めた。北原さんはにこやかに話し始めた。 「リュウさん、いや神代さんをお呼び立てして、初めてお会いした時に、実に懐かしい感じがした。私と祖国は違っていても同じ人種の匂いがした。しかし、会ったことはなかった。神代さんの方は、散歩の途中で、私が会社から帰り、車から降りるのを何度か目撃していてくれたようだが、それも遠くからで、実質上は神代さんも初対面のはずである。で、何回かの生まれ変わりの前、そうあなた方風に言えば、ムー大陸あたりで一緒だったんだとも思った。それはそれでいいのだが、神代さんが話し始めて、今度は声は間違いなく今回の人生で聞いたことがある、そう思いました。その時はわからなかったのですが、次の日、庭を一緒に歩いていて、ある場所まで来ると、二匹が急に走り出してそわそわし、鼻を鳴らしながら右往左往するので、はっきりと思い出しました。皆さんも御存知なように、この犬種は、グレート・ピレニーズといい、大変賢く、しかも穏やかで、飼い主に忠実な犬です。まぁ、少々の財産を作らせてもらったこともありますから、番犬として最適だといいますし、犬が好きで、飼えるようになったら是非買いたい、そう思って飼いました。この家も身分不相応だと思われますが、犬のためでもあります。で、番犬に最適で、飼い主に忠実なこの二匹を、声だけで手懐(てなず)けてしまったのは神代さんです。というのも、ある日、散歩をしていると、二匹が突然走り出して、生垣が少しまばらになっている部分、先にまばらになったのか、二匹が首を突っ込むからまばらになったかはわかりませんが、丁度二匹が首を突っ込む場所がありました。そこから道路が見えますから、外を歩く観光客などに吠えていることは知っていましたが、その時は吠えずに、尾っぽをちぎれるほどに振っています。そっと犬の後ろに近づきますが、大きな犬が邪魔をして外は見えません。声だけが聞こえました。『こんにちは。元気でしたか。よかったね、大きな御庭のお家で飼ってもらって。ちゃんとご主人さまの言うことは聞いていますか。そうか、良い子だね。本当に可愛いね。また会おうね。バイバイ』と言うように話しかけている人がいます。まるで人間に話しているように話していました。その声に気付いたのです。それが神代さんの声だと確信しました」 「すみません、番犬のこの子たちを勝手に馴らしてしまって。でも本当に可愛いですね」 「で、そこで、リュウさん、いや皆さん、席に戻ってくれますか。はい、右近と左近、ハウス、大丈夫、今日は一緒に連れていってもらうから。はい、ハウス」 二匹がすごすごと庭を歩き始めたのを確かめて、龍行も座に戻った。 「右近と左近ですか。私もいろいろ呼んではみたのですが、思いつきませんでした」 「いや、白い毛で連獅子(れんじし)を思いだして、右近と名付けまして、その子どもですから左近と名づけました」 「奥ゆかしい名前ですね」 沖縄の林田がそう言った。 「沖縄出身の林田さんにそう言われると、何か嬉しいですね」 「私は大和の芸や芸術はちょっとかじった程度ですが、この連中はリュウさんはじめ沖縄の民謡や芸術にも精通しています」 「いやいや、それどころか『恨五百年(ハンオベニヨン)』を教えてくれたのもリュウさんです。それにパンソリも」 北原さんは、立ち上がって、龍行に握手を求めた。 「ありがとう、ありがとう。うれしいね、『ハンゴヒャクネン』でなくて、ハングルで言ってくれるのだから。そうそう、そうなんだ、芸術や芸には国境はない。それにどこが滅びても無くなっても、今回の災害で一切が津波に持っていかれたといっても、物質のことだ。心も心に刻み込まれた芸や芸術は不滅なんだ。そして二番目は、そのことと関連する」 一旦なごみだしていた部屋に再び緊張が走った。 「実はさっきの右近と左近はここしばらく、実に落ち着きがない。今、リュウさんに喜んだようにも喜んだことはない。それに今の喜びようは普通でないと思わないか。彼らは、あなたがたが迎えに来てくれたと思ったのです。しかし、ハウスと命令しましたから、しょぼしょぼと帰りました」 「こんなに立派なお家に飼われていても不満なんですか」 「いや、そういう問題でなく、私は、きっと『負うた子に教えられて浅瀬を渡る』でなくて、『飼い犬に教えられて京都の危機を知る』だと思います。リュウさん、最近、嵐山を散歩していて、何か気付きませんか」 「そう言われますと確かにそうです。この冬は、連中もこないでしょうねきっと」 「なんですか、それは」 鹿原が身を乗り出して聞いた。 「実は、毎年だと、この時期、とんでも無い数の赤とんぼが舞うのだ。きっと京都は農薬に汚染されることが少ないからそんなに大量にいるのだと思うのだが、その赤とんぼが全くいないのだ。それに沢山いた鴨やサギ、それに鵜(う)やカイツブリ、さらには鳩や烏、雀もいなくなったように思いますから、冬の使者ユリカモメはきっと来ません」 「そうか、そういう兆しがあったのか。先日、鴨川を散歩していて、魚を釣っている人に聞いたのだが、ここしばらく全く釣れないそうだ。それにお弁当などを開いている人からお弁当を奪った鳶(とび)なども居なくなったようだ」 山岡先生の自分に言い聞かせるような言い方を戸山が拾った。 「山岡先生、いよいよ『沈黙の春』いや、京都では『沈黙の秋』になるのでしょうか。そしてそれを教えて下さった北原さんはさすが同志です」 「嬉しいですね、いつも寡黙な戸山さんにそう言われると。ですから、あなたがた、そうか私もいれていただいたのだから、私たちがやっていることは間違いない、ということで、動物たちが教えてくれています」 「普段ビルとアスファルトしか感じていない都市住民にはわかっていないだろうが、あの烏丸通りのムクドリの大集合のように、都市なんていっても、大自然の上の仮の住まい、京都の場合は文字通り砂上の楼閣にすぎないのだろう」 山岡先生の言葉に北原さんが声を落としながら言った。 「錦繍(きんしゅう)の京都などといって、イチョウやモミジの紅葉を愛でることもできないのだろうね」 「秋に色艶やかに装飾される京都ですから、人々の意識に今回の事態を信用させることはむしろ難しくなるかもしれませんね」 「こんなに綺麗に色づいているのに、それが来年は見られなくなるとは誰も思わないし、思いたくもない。私もこの嵯峨野に居を構えたのは、京都という自然と共生できる数少ない、素晴らしいところだからで、自然と共生しているだけに、自然の動きに敏感であってほしいものだと思う」 北原さんは遠くを見詰めながら言った。 「では、僭越ながら、この運動の責任者としまして、出来り限り速やかに京都から移動を始めます。そして一人でも多くの人に伝えます。それでも移動しない人は、何度も確認していますように、私たちの任務を超えていますから放っておきます。では、まず今日乗ってきましたバスで、北原ご夫妻と純子さんでしたか、そして右近と左近に集合住宅に移動してもらいます」 「私たち夫婦はいつでも大丈夫です。スーツケースひとつさえ持っていけば、それで充分ですから」 全員が驚いた。この邸宅、財宝を有しているなら、物に対して執着をするはずだと思っていたが、実にさっぱりとしたものだ。 「右近、左近も一緒で大丈夫だね。それに純子さんには意志を確かめよう」 「では、善は急げ、バスに乗っていただいて、右近、左近はバスでもいいし、トレーラーでもいいし、鹿さん頼むわ」 「任してください」 「ちょっと電話を一本だけしたいのだが」 「急いでいるといいましても、大丈夫です。何でしたら明日にでも迎えに来ます」 「何を言っているか。私はいつでも引っ越し、いや死ぬ準備はできている。電話が終わり次第、妻と右近、左近と一緒に連れていってもらいたい」 そう言い終わると、北原さんは電話をかけた。 「忙しいところ、悪いな…うん、そうなんだ。実は今から妻と右近左近、それに一緒に行くと言えば純子さんも一緒に、伊勢の集合住宅に移動する…そう、お前の家族の部屋もまず確保している。だからいつでも来ればいい…えっ、本当か、無理しないだろうな…えっ、もう発注したのか…うん…うん…それで…神代さんは怒らない…そうか土田さんも…わかった、わかった、伝えておく。さすが我が息子。ではあなた方は取りあえず避難所のつもりで…じゃ向うで。孫たちはすぐにも移動させてほしいね…たぶん夕方までには行くから、ああ、面倒は見ておく…しかし、あなたがたも早めに移動を…はいはい、邪魔したな」 皆が聞き耳を立てていた。もはや隠しごとをしている段階ではないこともあった。北原さんが口を開いた。 「息子に電話したのだが、あの敷地に五棟の集合住宅を建てるように、土田さんに発注済みだというのだ。土田さんが怪しんだので、すでに半金を払って、神代さんの命令だと言ったそうだ。そしたらその夜から工事を始めてくれて、しかも全国の支店から総動員でやっていてくれているそうだ。で、コンセプトは間違いないようにしながら、地盤の調査で、十階建でもいいそうなので十階建にするそうだ。それは自分の会社の連中に言ったら、移動したい希望者が沢山でたそうだからで、それでも一棟で収容できるので、あと四棟はお使いください、ということだ。神代さんに了解を求めていないが、自主的な判断こそが神代さんの信条だから許して下さるだろうと言っていたのだが」 「またまた同志が参加ですね。ありがたいことです。それでは第一回の記念すべき移動を開始します。そして山岡先生ご夫妻も今日中に移動をしてください」 「私の所は、北原さんのところのようにあっさり移動できるかな。ちょっと電話してくれますか」 奥様が出て、電話を代わったが、山岡先生は、最初の一言以外には何も言わずに、ばつの悪い顔をして携帯電話を返した。 「ええ、いつでもいいですよ、だっていうのです。準備完了しています、そんなもの当たり前でしょう、子宮で考える女にはわかります、なんていいまして」 龍行は笑いをこらえながら、女性の勘が動物に次いで正確だろうから、いよいよ大変な事態が起こるように思えた。それは女性こそ人間の本来の機能を残しているからだとも思った。男どもが論理だの法則だのといいながら思考回路を女性より使うために、天の意志というか自然の動きを察知する能力に乏しいからだとも思った。 「では、ご一緒しましょう。記念すべき第一陣ですから、山岡ご夫妻と」 「うちの猫は大丈夫だろうか」 「失礼な言い方を敢えてさせていただくと、奥さん以上にわかっていますって」 北原さんが山岡さんに言った。 「リュウさんではないですが、都会で残された唯一の自然が人間だというのに、人間の方で自然から離れようとしているのですから、人間より動物が正しい判断が出来るだろうと思いますよ」 北原さんは言葉を続けた。奥さまより猫の方が分かっているということが失礼だと思ったからで、言葉つきも丁寧だった。 「そうしますと、人間でも男どもが盆暗(ぼんくら)なんですね」 「ぼんくらはいいね。あれは確か博打(ばくち)の言葉だったね。采(さい)を伏せた盆の中に眼光が通らないで常に負けていることから来ていたと思うのだが、まさに京都という盆の中で何がどう起こっているのかが見通せないのだ」