2014年6月21日 更新 第十一回 (六) 「あなたが、どのように思っていらっしゃるか知りませんが、両親は少なくとも好き好んで韓国から日本に来たわけではなかったようです」 「ええ、私は滋賀県の米原という所で生まれました。まだ戦争が終わっていませんでしたから、戦後の様子は自分で見聞きしたわけではありませんが、両親や我が家の商売のために働いていてくれた人々から聞いています。小学校のクラスにも朝鮮半島から来た人々の子供が三分の一居ましたから事情はよくわかっているつもりです」 「では、私がどう考えているかをお話しする前に、あなたの韓国人、朝鮮人に対するお考えを聞かせてください」 龍行は、呼び出された老人が何ものかは知っていた。もちろん詳しいことは知らなかったが、自宅の巨大な敷地は周辺を散歩することで知っていた。今日、初めて中に入って、老人が極めて心地よい暮らしをしていることを知った。日本建築に住み、成り金趣味とは違う実にしっとりとした、簡素で虚飾を極限に抑えて、実に美しい内装や調度品に感動していた。通された部屋は、庭が見える大きな和室で、床の間に活けられている花は、足元が傾いていたから、嵯峨御流(さがごりゅう)の「才の花」だと知った。「才の花」とは宇宙にあって万能の働きを有する天、地、人の三才の意からそう呼ぶのだ、そう思い出すと、この花を活けてあることで、龍行はさらに身を引き締めて、床の間を背にして勧められた座布団に座った。 昨日、突然携帯電話がかかった。北原と名乗り、どうしても会いたいという電話だった。最初に名を名乗り、次に神代龍行本人かどうかを聞き、龍行が本人ですと答えると、孫にあなたのウェブサイトのことを聞いて、孫に見せてもらったが、どうしても尋ねたい事があるから会いたいということだった。口調は丁寧で、年齢的に大先輩に違いなかったが、龍行はその話し方に好感を持って、二つ返事で出かけることを承知した。そこがよく知っている場所でもあったから、散歩の延長のような気安い気持ちだったが、服装だけは失礼の無いようにして出かけた。 和服の老人が「いやいやお忙しいのにどうも」と入ってきたから、そのにこやかな顔を眺めながら、龍行は座布団を滑り降りて、畳に額がつくほどに礼をした。 「そんなに御丁寧な挨拶をしていただくと恐縮です。私が勝手に呼び出したのですから」 龍行に座布団に戻るように手で合図しながら、自分は反対側にゆっくりと座った。すそのさばき方など見事だった。「綺麗だ」と龍行はそう思っていると、いきなり自分が韓国人であることを示す言葉だった。龍行は初対面の人に会う緊張からもう一つレベルの高い緊張に頭が冴(さ)え渡るようにも思い、なにも動じることはなかった。 「では、正直に申し上げます。戦後五十年を過ぎたあたりから、強制連行は嘘だったとか、従軍慰安婦は無かったなどといわれるようになりました。それがどちらなのかはわかりませんし、戦後、朝鮮人が、『戦勝国民』として、また『朝鮮進駐軍』と名乗って、日本全国で、略奪・強姦などの狼藉(ろうぜき)を働いたといわれています。日本の一等地の住人を追い出し、財産を没収し、女性は強姦し、やりたい放題をしてきたとさえいわれています。ですが、私は戦後四、五年の幼少時の記憶と照らし合わせ、また私にとっても大きな問題だったので、学問的にもいろいろ学んだこともあり、そこから出てきた結論は、政治的な右翼とか左翼とかいうような偏頗(へんぱ)な発想でなく、もっと大きな所から考えるべきだと思いました」 「幼少体験と学問とそしてその結論の三つを全て聞きたいですね」 「まず幼少期ですが、韓国の人も北朝鮮の人も、私のクラスメイトの人たちや彼らの親や親戚も、略奪や強姦などとは程遠い穏やかな優しい人ばかりでした。大きな家の軒先にバラックを建てたり、山裾に小屋を建てたり、廃墟のような建物に住んでいたりと、まさに雨露をしのぐだけの暮らしでした。そしてその時代、日本人の多くが貧しく飢えていましが、それでも比較にならないほど極貧の生活でした。豚を飼育したり、鉄くずを集めて歩いたりして、何とか生きていらっしゃって、そうですね私が小学校の五年生六年生頃には、それなりの暮らしが出来るようになったようです。例外もありました。早くから立派な家に住んでいる方もいらっしゃいました。しかし、問題は、日本人かどうかではないということで、両親がそのあたりを幼いころから教えてくれました。商売上、韓国や北朝鮮の人にも物を売らねばなりません。当時は売掛制度でしたから、月末にも払っていただけないことも多々ありましたが、父親は『仕方ないだろう。好きで来たわけではない人々を無理矢理連れて来たのだから』と言っていました。もちろん差別などしませんでしたから、我が家には遊びに来てくれましたし、私も友人宅でご飯などよくご馳走になりました。家に帰ってにんにく臭いことだけは叱られましたが、その家に出かけたことを咎(とが)めることはありませんでしたし、家を出る時に行先を告げて出ると、何かお土産をもたせてくれました。不思議なことに韓国籍と北朝鮮籍の両方の親友が居ました。韓国の親友は、今では同窓生の中でも第一の親友です。北朝鮮の親友はバスケットボールの名コンビでしたが、帰ってしまいました。彼は恐らく反抗し、きっと殺されたと思います。そういう男でしたから。ですから、幼い頃から、韓国人、北朝鮮人という区別差別より人間として仲良くすることだと教えられましたし、実際にそうでした。それは両親のおかげで幼いころから教えてもらいました」 「ひとつだけいいですか。お父さんは軍人ではなかったのですか」 「幹部候補生から終戦時には大尉でしたか、バリバリの軍人でした。ただ戦後、復員してきた人たちが、そのままの格好で、『隊長はいらっしゃいますか』と尋ねてきたことが何度もありました。父親が出てくると、『隊長、おかげで無事帰って参りました』と号泣し、父は抱きしめて、食事をさせ、泊らせて、軍服を着替えさせて帰しました。彼らが言うには、父の部隊は誰も戦死しなかったそうで、終戦の玉音放送を整列させた部隊の前の台の上で聞き、終戦と分かった瞬間に台から飛び降りて、砂利の上に土下座して、隊員に謝ったそうです。しかし、そんな男ですから、多くの人が駈けよって父を抱き起こし、負けたというのに、胴上げをせんばかりの状態だったようです。ですから、教育はビシっとしていましたが、人間としては、全く軍人ではありませんでした」 「なるほど納得しました。では続きを」 「ですから大人になっても、人間という基準でものを判断できない人は、両親の教育のせいで、両親が偏狭(へんきょう)で浅はかな考えしか持たないと、子供たちはそうなるのでしょうし、大人になってもそうです。浅はかというのは、人間というレベルからすれば、国籍や宗教や政治的な考えというレベルは浅いものだという意味でもそうです」 「幼い頃に見た韓国人と北朝鮮人の苦労を何か覚えていますか」 「遠い昔のことですが、一番に頭に浮かぶのは、斜めになった油の缶です。一斗缶というのでしたか、油の入っている缶です。商売で使われて空になった缶を集めてきて、逆さまにもう一つの缶の上に載せておきます。そうしますと、油の残りが滴(したた)り落ち、それでも結構家庭で使うぐらいは集まるといっていたこと、それから燃料にコークスという石炭の燃えがらを使っていましたが、それを駅の蒸気機関車の操車場で拾うのですが、そこでもやはり心無い人に差別されて拾うことができません。そのためにまだ暗いうちに出かけますから、闇に黒い機関車が近づくのに気付かず、また機関車の方も人影が見づらく機関車に轢(ひ)き殺されました。巨大な蒸気機関車ですから、見るも見残な恰好で亡くなった人を何人も見ました。そうそう駅で思い出しましたが、米原は駅だけ巨大で駅だけが都会でしたが、三分も歩けば畑で狐さえいるような田舎(いなか)でしたから、いかに戦後の食糧不足でも、食料は根気に集めれば集まったようです。それを都会に運び、闇物資を持ち帰る担ぎ屋というのがいまして、全て取り締まると当時の流通経済がストップしますから、見て見ぬはしていたのですが、駅では時々見せしめのように取り締まります。その中に一家の大黒柱のような男が捕まると、その家はたちまちその日に食べる物に困るわけです。そんな時は、奥さんと思える人が我が家に駈けこんできて、父親に必死で頼んでいました。たどたどしい日本語で、『社長さん、見捨てたら、一家、皆死ぬ。社長さんの責任』と大声で泣きますから、父親が悪いことをしたようにさえ思われます。というのも、取り締まりに当たっているのが父親の親友でしたから、父親はその女性を連れて駅に掛け合いに行きます。その女性を連れていくのは、そこで彼女がさらに激しく泣くと、それが面倒なので、ついつい釈放するからです。私は面白い町に生まれ育ったと思っています。若い人にはわからないでしょうが、戦後は石油がありませんでしたから木炭車というのが走っていまして、後ろのドラム缶で木を燃やします。その木が道路に落ちることがあって、拾いに行くのですが、拾っている間に自動車に轢かれることもしばしばありました。そんな人の葬儀なんかにも父親に連れられて出かけました。韓国や北朝鮮の人の葬儀は大変なものですから、そんな葬儀の始まる前に彼らの住まいに連れていかれました。役場の連中も面倒なことはみな父親に頼んだようで、父親はそのたびに私を連れて行きました。その住まいには、畳の原型というか、昔はきっと畳だったのだろうと思える茶色のじっとりと湿ったような畳の六畳一間に五人も六人も住んでいました。煮炊きする道具といえばコンロというか七輪というか、それがたったひとつで、私の家との大きさの違いや、商売もあってかまどが五つも並んであった我が家の台所との違いに息を飲みました。父は見せるだけで、何かを学ぶだろうと思っていたのか、決して何も言いませんでした。食品を作る商売でしたから、小麦粉をわけてほしいと韓国の人や朝鮮の人がよく来ました。今でいうチジミを作るようですが、チジミはいわば土台で、それにニラやエビやといろいろ入れますね。しかし、そんなものはありませんから、土台を食べるだけです。そこに野草のノビルとかハコベを入れていました。それに着るものがないのか、毛布のようなものを体に巻いて荒縄で止めている女性がいました。父親は帰って早速母親に何か衣類をもたせてやらせていました。いわば生きるのはこれ以下では無理という惨憺(さんたん)たる生活でした」 「ああ、今の話はほとんど私の両親のことだ。あなたのおかげで思いだすことが出来、両親への感謝を改めて感じます。ありがとうございました」 老人は丁寧に頭を下げた。その思いの深さに感動したのか、龍行は大粒の涙を零した。老人は見逃さなかった。 「子供の頃の話はまた思い出せばさせていただきますが、その時に見聞きしたことと戦後五十年ほどたってからいわれているような戦後の朝鮮、韓国の人が暴徒となって暴れまわったり、乱暴したりした所はありませんでした。みなさん慎ましく生きていました。ですから、民族でひとくくりにする考え方が間違っているということは学びました。戦後のどさくさに紛れて悪事の限りを尽くす人は日本人にもいました。しかし、日本人全部がそうだったことなどがありえないように、韓国や朝鮮の人々も一緒です」 「こんな年になって、あなたのような日本人にそういうことを改めて教えられるのはある種ショックです。人間は日本人や韓国人である前に人間である、それは日本人にも言わなければならないことですが、何よりも差別を受けてきた我々も深く認識しておくべきだったことに違いありません。そうすれば、もっと早くに私たちは人間として一緒に生きられたのだと思います」 「北原さんのような大先輩に申しあげるのは失礼ですが…」 「いいえ、そのために来てもらったのですから、何なりと」 「私も六十年以上生きてきまして、今の人間に一番欠けていることは、自分が自然の一部、生き物の一部だということを認識することです。もしそれが分かっていれば、人間が富を蓄積させるためや、そのために人を支配するために編み出した国も宗教も主義主張も何も関係ありません。そして人間が自然の生き物だと知れば、今のように文明をただただ自然から離れ、自然を迫害するような文明にはしてこなかったと思います。もちろん原子力などという自然の構造そのものを弄(もてあそ)ぶものなどがいかに人間を駄目にするか、すぐさまわかるのですが」 「そうか人間は自然の一部だということを忘れがちだということですね。その自然を言い換えれば神といいますか、創造主といいますか、サムシンググレイトといいますか、その種のものがさらに自然を大きく包んでいるのですね」 「生まれも育ちも、人種も国籍も、おそらく宗教も違うかもしれませんし、その上、生きる方法や目的がまるで違っていても一生懸命に五十年六十年と生きてきますと同じ考えに辿り着きます」 「私は、言わばお金を儲け、そして両親のような暮らしから抜け出したいと思ってきた人間ですが、そんな私も御一緒させていただくと実に嬉しいのですが…」 「もしもですよ、もしもいわゆる守銭奴といいますか、本来手段であるべきはずのお金がいつの間にか目的となってしまった人は、私たちのやっているようなウェブサイトや私が懸命に書いています作品などは無駄なものです。いや、暇つぶしぐらいにしか思ってもらえません。そんなウェブサイトをご覧いただいて、私をこうしてお招きいただくのは、同じところを見据えていらっしゃるからだと思います」