2014年6月14日 更新 第六回 歴史上の陥没で最も有名というか、人類が発生してからの地球史の中で、最も壮大で劇的な陥没がムー大陸だと思えるが、それは一万二千年前のことだといわれている。高い文明を誇っていた大陸が太平洋の底に沈んだのだが、それが伝説であって、地球物理学の理論上もありえないし、地球物理探査でも海洋地殻が広がっていることは一目瞭然で、実際に掘ってみても、人類発生以前からずっと深海底だったことが明らかだという。 しかし、地震ひとつ予知できない科学の理論や探査や計器などあまりあてにできないが、人間の存在の方から考えると、ムー大陸のような存在がなければ納得できないことが多すぎる。ムーという地理的に具体的な場所が存在したかどうかはとにかく、人間の精神的な面で、歴史学者の言うように、突如、文化的な意識が生まれてきたとはとうてい思われない。 進化論を俗に揶揄(やゆ)する時に、「動物園の猿を見ていても、突然人間になる猿はいない」などと言われるが、それは人類の個体の進化では乱暴な意見ではあっても、精神的な存在としての人類には納得できる言い草かもしれない。龍行は、個体の進化は最初からなかったと言う説を曲げたくはないと思っていたが、人間は他の生物と違ってそれによって生活の場所や方法、さらには生き方までも変える意識的な存在の側面が大きい。現在の地球上には信じがたい奇妙な形態の動物が存在するが、それはイボイノシシの顔が進化の結果とは思えないように、進化の結果ではなく、地球上に誕生した時から現在の状態だったと考えている。 たとえば、キリンの首が長くなったのは、高いところの葉を食べるために、努力を重ねて長くなったというのが、フランスの博物学者ラマルクの言う「用不用説」で、彼は「獲得形質の遺伝」を唱えた。キリンだけが長い首に成りえたとは考え辛い。長いのはラマルクのフルネームで、ジャン=バティスト・ピエール・アントワーヌ・ド・モネ・シュヴァリエ・ド・ラマルクというそうだ。 一方、よく知られたダーウィンは、首の長いキリンだけが生き残ったと言う「自然選択・適者生存説」を唱えた。ラマルクの「獲得形質の遺伝」は否定されているが、ダーウィンの「適者生存説」も同じように非科学的でも、現在の支配の論理的な正当性を保証する理論である以上、おいそれとは否定されない。強いものが生き残ることが生物の法則であると言いふらさないと、他者から搾取して蓄えた財の量による支配が正当化されないからだ。 だが、冷静に考えれば、もしも両者の理論が正しければ、他ならない人類は、適者生存説が言うように、困難な環境を生き延び、また進化に進化を重ねて、種々の能力を発達させ、現在のありようとは遥かに違う「超人」になっていたはずである。しかし、現実はむしろ逆で、人間の種々の能力は、キリンの首が馬の首の何倍にも成るようには進化してきていない。それどころか、意識によって能力の代替物を多数作りだして、どちらかといえば、個体としては退化傾向を否めない。簡単に言えば、次第に脆弱な人間になってきている。 人間以外の生き物の全ては、「限界の中での進化を終えている」と言われるが、進化を終えたのがいつなのかを考えると、その時代がないように思え、龍行は、最初から多くの命は、今の形態で誕生したと考えている。しかし人間の意識だけは、この言葉と逆で、「進化を終えていない」と考えている。「人間の脳は所有者がその必要性を感じる以前に、すでに発達を終えている」とも言われるが、それもまた人間の肉体的な部分としての脳の発達であり、精神的な存在を支える意味での脳については、発達や進化を測れるどころか、未だ充分には把握されていないと言わねばならないし、この二十一世紀の地球に住む人間を見て、これで人間という種の脳の精神的なものが発達や進化を終えているとすれば、もはや人間に絶望するしかない。 人間の精神的な発達や進化が終わっていないどころか、これからまさに発達し進化しなければ、そう龍行は思っていた。そして、同じように、人があまり吟味していないことで、人間の脳がまるで突然変異のように優れたことや物を生み出してきたとは言えないと思っていた。日本の公的に記録されている歴史の始まりと共に、突如、様々な優れた文物が生まれたり、暮らしの方法が生まれ、それらが突然変異と思われているが、それまでの記録に残されていない時代については推測するしかない。 といっても、その記録そのものが支配者の良いように改竄(かいざん)されていて、信憑性(しんぴょうせい)はのっけから疑ってかからないといけないが、いずれにしても成果として残っている文化的なものは、今、考えられているように、歴史上に突如出現したとはとうてい考えられない。 たとえば文学でいえば、『竹取物語』が日本最古の物語といわれ、『万葉集』にある「竹取の翁が天女を詠んだ長歌」との関連が指摘されるが、これを日本最初の仮名によって書かれた物語として見ても、その成立年は不明である。またその関わりの指摘される『万葉集』は七五九年以降の成立といわれている。そして、日本文学における最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』が七五一年ごろである。「阿(あ)比(び)留(る)文字(もじ)」「出雲文字」「からかむな文字」「秀真伝(ほつまつたえ)」などの漢字伝来以前の古代文字は一笑に付され、否定され、抹殺される。そして漢字が伝来するまでは文字を持たずに、口述で神話や伝説を伝えてきたといわれているが、それはいかにも大陸からやってきて日本列島の原住民を支配した支配ならではの「いい分」のように思える。 古代文字が真実かどうかは置いておくとして、文学に限らず、書かれたものは、六〇〇年代の聖徳太子が著したとされる『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』、そして『古事記』七一二年、『風土記』七一三年、『日本書紀』七二〇年などがいわば書き物の始まりであるが、これらはいずれも歴史書であり記録である。その記録に入れるべきかどうかも吟味が必要だろうが、その二百年ほど後の九三五年に『土佐日記』が誕生する。 そして九〇〇年代に入って、『伊勢物語』『将門記(しょうもんき)』『大和物語』などの物語が続き、千年頃に『枕草子』一〇〇八年頃に『源氏物語』となっていく。一〇〇八年の十一月一日の『紫式部日記』に『源氏物語』のことが書かれていて、この年には『源氏物語』が書かれていたことは間違いないと、二〇〇八年に『源氏物語千年紀』が行われた。「千年も昔に」ともてはやされたが、逆に言えば、世界に誇るあれほどの質と量を持った文学が生まれて千年しかたっていないのか、と不思議に思える。 それ以上に不思議なのは、『枕草子』『源氏物語』より以前の文学的な系譜である。『懐風藻』から二五十年で、それまで漢字ですらものを書かなかった人間がわずか二五〇年後にあの物語を書けるのだろうか。むしろそれ以前に膨大な文学的な所産があり、その系譜の上に『枕草子』や『源氏物語』が成立したと考えた方が納得できる、そう龍行は思っていた。 『枕草子』『源氏物語』の誕生から千年を経た今日の人間に感動を与えうるのは、人間の精神的なものの見えないもうひとつの系譜があったに違いない、そう龍行は考えていた。『枕草子』や『源氏物語』の高い水準は、文字を持たない口述の系譜から突如生まれたと考えるのは、動物園の猿が突然人間に変わったことと同じほどに信じがたい、そう龍行は考えていた。 龍行は、単に文字という媒体の問題でなく、漢字を知ったかどうか、それを仮名にしたかどうか、でなくて、そこに展開している人間の精神的な機微が、おおよそ数百年で人間の意識の中に育まれたとはとうてい思えないと考えていた。 すなわち紫式部という稀代の天才が突如、あのような壮大な物語を構想し執筆することが出来たようにいわれてきたが、まさに文化的な突然変異だったのだろうか。それとも、すでに日本列島支配を盤石にした大陸からの侵略者によって、それ以前の一切の文化的な文物が焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)されてしまってはいたが、口述される神話や伝説とは違って、口述もされなくても、日本列島原住民の頭脳の秘匿された九十%の中に脈々と生きていたのではないだろうか。そして弥生時代以降の大陸からの侵略者以前の日本原住民と思われる縄文時代の人間たちこそが、ムーのような先進文化の発達した場所から移り住んだ人々ではないだろうか。 しかもそれは文学に限ったことではない。二十一世紀の現在、人の営みの細部にわたって吟味してみれば、二千年や三千年、中国の誇りの常套句(じょうとうく)の四千年にしたところで、今日の暮らしとそこから生まれる文化と文明が一朝一夕でなく、百四十六万の 朝と百四十六万の夕で可能だとは思えない。 龍行は、あの火焔土器の芸術性と宇宙のパワーを受容する優れた機能性、それに漆やべんがらなどの発明から考えても、その方が理解しやすいと思っていた。 縄文時代とムー大陸を繋ぐことは、時代的にも合致する。日本列島で高い文化を生み出していたはずの縄文時代は、一万六千五百年前から三千年前まで続いていたといわれる一方で、ムー大陸があったとすれば、それが太平洋の底に沈んだのは一万三千年前のころだと言われている。 それにしてはそれを証明するものが何も残っていない、そう考えられるが、支配としては当然で、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)したに違いない。自分達が日本列島の先住民だと言いはり、いや先住民でなくても、支配を正当化するためには、一切を葬り去ったと考える方が合理的に思える。少なくともわずか千二百年の京都でさえ、平安時代の文物はほとんど伝承されてはいない。建造物に至っては皆無と言える。一方大和に建造物などが残されているのは支配が早くに都を移してしまったからで、権力争いの場ではなくなったからだ。 都とか首都とか言い、地方に対して中央などと呼ぶ場所は、いつの時代でも個人的な欲望実現の場でしかなく、その強い者に群がる利権者たちの活動の場に過ぎない。それゆえに首都は、膨張し続けて、やがて滅ぶ。それが地震などの地球の要因によるのか、それともそこに醸成された意識のせいなのか、あるいはイースター島のように限られた資源と貧しい環境でありながら、資源浪費型であり、また極端な偶像崇拝の祭祀文化を競争的に発展させてしまったような社会のありようと個人の暮らしの仕方が理由で滅ぶのか、やがては滅んでしまう。 龍行は、イースター島のことを考えると暗然たる気持ちになった。ひょっとすると地球の要因と社会のありようと個人の暮らしの仕方の間違い、そしてそこで育まれた意識、その三つの要因が考えられ、その三つが龍行の予感をより確実なものにしてきた。そうなると、その滅亡の前に、出来る限り多くのすぐれた頭脳を持ち出さないといけない、そうも思った。文物というが、縄文時代のものがまるでなく、たかだか千二百年前の文物でさえほとんど無くなってしまい、江戸末期から明治に建てられた町家などを珍重がる都市の文物で、命を賭して持ち出すほどのものはないのだろうし、持ち出したところで、新しい生き方を創る助けにはならない、そうも思っていた。持ち出すべきは、頭脳であると。あるいは頭脳という言葉が限られているなら、人類の普遍意識に繋がっているような、世間で天才などといわれる人間たちであり、はんなりと、そして楚々(そそ)と行われている暮らしの細(こま)やかな営みであろう。 龍行は、『新約聖書』の一節を思い浮かべていた。それはマタイによる福音書にある「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしもそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れでるし、皮袋も無駄になる」(『新約聖書』聖書協会刊)という言葉である。イエス・キリストの時代、酒の運搬や貯蔵には雌山羊(めすやぎ)で作った皮袋が使われていた。だから古くなって弾力を失ってしまった皮袋に、新しいぶどう酒を入れると、まだ発酵を続けていて発生する炭酸ガスによって皮袋は破れてしまう、ということだが、今、この盆地こそが新しいぶどう酒を醸成してきたことは間違いない。しかし、器として京都の革袋はすでに干乾(ひから)びているのかもしれない。そのためには、天の意志が働くのだろう、そう龍行は確信に似たものを抱き始めていた。 ただ新しい酒を造るためには、日本酒を造るために発酵させる米麹(こめこうじ)が必要なように、意識は新たな酒造りの触媒にならねばならない。それがたかだか千二百年でできたとは思えない、そう考えているのだった。 だから、もしも京都の『京都』と思われる文化的なもの、創造の枠組み、日常の細部への心遣いから立ち上る気配のようなもの、そうしたものがムー大陸から逃げ延びてきた人間の系譜に繋がっているのなら、それに自らを繋いで、陥没と共に消えてはならない、そう自らの使命を感じていた。 義母の茶碗の罅から食事もそこそこにして、龍行は自室に籠ってしまって、情報を集め、吟味し、考え込んでしまった。そして、『京都』が米麹になって、どんな酒を醸(かも)せばいいのか、そればかりを考えていた。横で眠る猫に話しかけ、猫が眠そうに目を開けて、それでも指先を舐(な)めてくれるのに任せて、龍行は考え続けた。一万数千年前から引き継いできて、『京都』でさらに熟成(じゅくせい)してきた人間の精神的な所産の中で、あるいは意識的な枠組みの中で、京都という皮袋が古いと言い切れる新しい酒は何なのだろうかと。 猫にペロペロ舐められながら、部屋に並べている観葉植物を眺めながら、小さなコップに活けてある庭で摘んできたシャガの花を見ながら、裏庭で見つけて植木鉢に移植した菫(すみれ)を見ながら、龍行はやがてにんまりと笑いながら、人間と動物、植物の違いに気がついて、そこから新しい酒のヒントを得たようだった。それは彼が愛してやまない動物や植物に比べて、人間はどこがどう違うのだろうか、ということだった。そして地球レベルで考えると、人間だけが自己の欲望実現を種々の偽装で、正義だの歴史の要請だのと言いながら無駄な殺し合いが出来るということだった。一人ひとりの個人にしたところで、動物が繁殖期の争いを除いて、無闇に相手を押しのけたり、嫌ったり、傷つけあったりしないこともそうだろう。人間だけが、自分一人で生き得ると考えていることかもしれない。個人が裸で生まれて裸で死んでいくというのは、それはそれなりに正しい言い草ではあるが、個人がたった一人で生き、死んでいくと言う視覚に映ずるもので人間を認識していないか、ということだった。ややこしく言えば、人間は個人が個人で完結している閉鎖系だと思っていないかということだった。 そしてそれが『京都』の皮袋が新しい酒を入れる事の出来ない古さなのかもしれない、そう龍行は思った。だから『京都』として次代の新しい場に受け継いでいくべきものは、『京都』として残したいものが、個人の個人的な認識を越えているものに違いないと思った。 細やかな日常の心配りをした営みは、意識していないにもかかわらず、個人を閉鎖系として認識していてはできないことばかりなのかもしれない。単純に言えば、人への思いやりひとつでも個人が個人で完結していないという潜在的な自分認識のなすことだろうし、道具や環境との調和や共生は明らかに人間が個人で生きていないということの表れではないか。芸術や芸能もしかりで、伊藤若沖が「神気」を感じてあの名画を書きあげたように、明らかに個人を越えた普遍意識への繋がりではないか。 新しい酒、それは個人が個人の意識を越えた普遍的な意識につながっていること、そしてそれによって生かされ、創造し、感動し、活き活きと生きているような枠組みなのかもしれない。肉体的には、頭脳の日常に使う十パーセントの残りともいうべき九十パーセントを意識し、生かす方法を創っていくべきことだろう。 その視点から見れば、京都の人々の営みの動機が個人の欲望であり、そのために巨大な闇を創りだし、肉体の脂ぎった精神の死んだゾンビの逆のビンゾのような魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する、卑(いや)しい皮袋になってしまったのだろう。 そう考えると皮袋が破れるのも仕方がないことかもしれない。龍行は、義母の茶碗の罅の上に、千二百年に膨らんだ大きな皮袋を載せ、それが大きな罅割れの中に陥没していくようなイメージを消せなくなっていた。