2014年6月11日 更新 第三回 (二) 優貴に対しての思いがあまりに静かだったことに自分自身で驚いてはいたが、東日本に向けて送っていた愛の大きさと深さに、ある黒い影が走り始めた。 龍行はパソコンの電源を切り、いつものサウナスーツに着替えて、ウォーキングに出かけた。大通りから住宅街に入り、細い道を縫うように歩きながら、また背筋に冷たいものを感じた。「また」とは今日だけではなく、この道ではいつも感じるのだが、その感じが嫌であまり通らないのだが、今日は玄関を出て、左の公園に向かう道か、右の住宅街への道かどちらにしようかと思った瞬間に右の道を歩き始めていた。何かあるのだろう、そう感じた。直感で行動するようになって長いが、今日もその意味がわからないままに右の道を取った。 背筋に冷たいものを感じるのは、脳で幻視してしまう灼熱地獄だった。 「全部燃えるだろうな」 そう口に出してしまった。口調は穏やかで、どこか諦(あきら)めを含んだものだったが、微かに怒りが感じられた。消防車が入れないこの長くて細い道に建築を許可した役人たちと、その役人に鼻薬をきかせて許可を取り、首をかしげる真っ当な大工を誑(たぶら)かせて、張りぼてのように作った家々が犇(ひし)めいていた。 「一軒家が欲しい」 「都会に住みたい」 「憧れの京都に住みたい」 彼らは軽はずみな望みのために命を担保にしてしまった。龍行は「俺が通るたびに感じる恐怖を、ここに住む人たちはどこにやってしまったのだろう」と思った。「不動産屋に案内されて、大通りで車を降り、そのままこのくねくねと細い道を辿っている間に、どうして恐怖を感じなかったのだろうか。この道沿いの家を選ぶ基準はどこにあるのだろう。安全とか安心が、便利や見栄や安さに飲み込まれてしまっているのだろう。もしも火事になって全てが焼き尽くされ、自分達が命を奪われることがあっても、そのことを今日予見しなかったとしたら、火事と喪失を悲しみ嘆く権利はない。迂闊(うかつ)なことが一生を台なしにしてしまうのだから」 龍行はぶつぶつと呟(つぶや)きながら山沿いの道に出ようとした。出ようとした時に、その細い道と山沿いの道の角地に立つ家のささやかな庭で、今生限りと鳴く油蝉を見上げた。油蝉は人の気配を感じて、急に鳴きやみ、慌てて飛び立った。水の飛沫(ひまつ)が弧を描く。蝉の尿だとか樹液だとか言われるが、いずれにしても水には間違いない。尿であろうと樹液であろうと、どちらも悪くはないな、そう龍行は嫌がる風でもなく、蝉に笑い返した。 「おいおい、蝉の尿療法なのか、有難いですね」 そう蝉を目で追っていたが、その蝉が電柱に止まると、龍行は立ち止った。いや立ち竦(すく)んだ。 「まさか」 声に出してしまった。 「えらいことだぞ」 龍行は、地名の元である嵐山という山と松尾山とに連なる峰の麓を縫うように走る道路に出て、通りの真ん中に立った。そしてそう思った。車一台は通れる道だが、車が来ないことを確かめると、龍行は携帯電話で、何枚も写真を撮った。蝉がとまった電柱が少し東に傾(かし)いでいたが、次の電柱も、その次も、振り返れば、一本前もその前も、全部、東に傾いていた。地盤が軟弱で、車の往来によって両側の電柱が中央に少し傾(かし)ぐのはわかる。しかし、両側のどの電柱も東にほんの少し傾いているのだ。 「まさかが本当になるのだろうか。火事どころじゃないぞ。火事なら全てが灰になっても大地は残るから」 龍行は、わけのわからない言葉を口に出した。蝉にまつわる二つ、滅多に注意しない蝉の水と傾いた電柱、それは野生の命の警告だと分かっていた。その警告で龍行は最初、ウォーキングを早々に引きあげて、警告が本当かどうかを調べるつもりだったが、むしろその警告が起こりえるのかどうかが信じられず、そのためにいつもより時間をかけて歩いた。 連想ゲームのように飛ぶものを思った。頭上の烏(からす)や雀はもちろん、渡月橋の上空から景勝地を俯瞰(ふかん)しているように、ゆっくりと旋回している鳶(とび)、川面でじっと小魚が跳ねるのを待っている青鷺(あおさぎ)、風景に白を添える大鷺(だいさぎ)、鴛鴦(おしどり)、かいつぶり、それに最近やってくるようになった鵜(う)、庭にやってくる鶯、ひよどり、かけす、目白や季節の野鳥たち、観光客に餌をねだっている鳩、彼らはとっくに警告を感じているのなら、きっと京都から消えているはずである。二〇一一年の大震災で鳥の死骸があっちこっちに転がっていたとは聞かない。もしも、既にその警告の現象が近いなら、鳥たちは冬のゆり鴎(かもめ)のように琵琶湖に飛んでいき、鵜は安(あ)曇(ど)川(がわ)や竹生島(ちくぶしま)に戻るだろうし、鴨や鴛鴦やかいつぶりや鷺の仲間は、桂川と鴨川の合流する地点より下流に飛び去るだろう。 龍行はそう思いつついつもの小さな命が同じように息づいているかを確認して歩いた。そして近づいてくる烏(からす)に「ちゃんと教えてくれよ。教えるのは簡単簡単。どこかに消えてしまったたら、危機が近いと思うから」と話しかけた。「鳥が鳴かなくなると、『沈黙の春』かもしれませんよ」、そう烏が答えたように思えた。「そうだな。もしもそうだとしても、それもひとつの原因になるのじゃないか。地球が『ガイア』と呼ばれる女神なら、女神の綺麗な肌を汚し傷つける唯一の生き物が人間だからな。どっちにしてもうるさいと思わないから、好きなだけ鳴いてくれよ。あなたの声がしなくなったら、逃げ出すから」と龍行は烏に話しかけるように自問自答していた。水面を凝視しながらあまりに動かない青鷺には、思わず「まだ大丈夫か」と叫んでしまった。青鷺の漁の邪魔をする気持ちはなかったが、青鷺は一瞬、声に驚くように体を動かせたが、再び彫刻のように動かなくなった。いつ獲れるかわからない魚をあんな風に待っているから、神に養ってもらっているのかもしれない、龍行はあまりに頻繁に口ずさむ『聖書』の一節をまたまた思い出していた。 「烏(からす)のことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか」(『新約聖書』「ルカによる福音書」日本聖書協会) 「烏だけでなく、鷺も鵜も鴛鴦も鴨もみんなそうなんだね。あんたらは偉い。神様を信じているから養ってもらえるのだ。それに比べて、人間どもの不信心には呆れ果てるね」と 龍行は自分が人間であることを忘れて、鳥の仲間に加わっていたが、しかし、鳥のように予知ができない情けない存在だと知った。予知が出来ないなら、しっかりと勉強して、情報を精査して、傲慢にならず、侮(あなど)らず、謙虚に神の意志を読みとって行動しなければならない、そう思った。 鳥に比べて、野生の動物たちからはなかなか警告を読みとれない。歩けば必ず出会ったり、夜な夜な庭に現れてくれれば、歩いていて彼らを見かけなくなったり、夜の庭が猫たちの天国になれば、危険が近いことがわかるが、それを住宅街の野生の動物に求めるのは無理だ。狸、鼬(いたち)それから山沿いの道では鹿と猿、そして亀山公園から小倉山に続くあたりでは猪、最近では龍行の家の庭にはアライグマの一家、ハクビシン、それに穴鹿でさえやって来る。人目を避けて、乏しい餌を探して回る彼らに危険を警告する役目は求められない。彼らが危機を感知したら、人知れず、京都盆地を捨て、西山や北山を越えて引っ越しするに違いない。 時々見かける野生動物から危機を感じ取ることは難しいかもしれないが、いつも見ている動物には充分注意すべきだろう、龍行は阪神淡路大震災の時の飼い猫の行動を思いだしてそう思った。ペットとして野生を奪ってしまった動物でも、危機には敏感で、自分達の力で逃げだせないから、その危機をいつもと違う行動で表す。 阪神淡路大震災の時に、飼い猫が前夜から異常な行動を示していたことで、龍行は漠然とだが何かが起こると感じたように、飼い猫や犬の行動をいつも観察していることが必要なのだろう。震災の前日、四匹の猫たちが夕方から何か騒がしかった。夜になると痛風の発作で二階で寝ていた私の横に、四匹とも集まってきていた。いつもの夜は、自分達のそれぞれのお気に入りの場所に寝るのだが、その夜は違った。そしてあの朝を迎えてしまった。 激しい揺れに四匹は私の胸の中に飛び込んできた。そして揺れが治まるとベランダの手すりの上に四匹が並んで、いつでも棕櫚(しゅろ)の木に飛び移って逃げ出せるようにしていた。龍行は「おいおい、お前たちお父さんを放っておいて自分達だけが逃げるつもりか」 そうベランダに向かって叫ぶと、四匹はその意味がわかったのか、龍行の周りに戻ってきた。彼らが部屋に戻ってきたから、廊下に出るドアを締めようとした。すると、チェンと名付けていた最も聡明と思われる猫が、ドアを締められないような場所に座って動こうとしない。龍行はそれを見て、余震が起こることを感じ取って、二階から一階の家人に大声で叫んでいた。「まだ地震が来そうですよ。気をつけてくださいよ」と叫んだ。確かに間もなく大きな余震がきた。 阪神淡路大震災の時の猫たちは、二十二歳、二十歳、十八歳、十六歳とみんな長寿を全うして亡くなり、今は庭に迷い込んできたミルクと嵐山で拾った菫の二匹と暮らしている。帰ったら、また彼らに頼んでおこう、龍行はそう思った。 しかし、予知ができて飛んで逃げる鳥たちはそれでいいだろうが、植物はどうなのだろう、そう見なれた木々や草花に心を寄せた。ひょっとすると鳥たちや動物たちよりも敏感かもしれない。おそらくはっきりと予知し、それでも絶対に移動できない自分達をどう思うのだろうか。 例年ならひと雨ごとに春を呼びこむように、梅が咲き、桃が咲き、桜が咲き、その桜もソメイヨシノから山桜、そして枝垂れ桜と季節のリズムを刻むように順次咲いていくのだが、今年は例年にない乱暴な季節の運びで、花々が一斉に咲いている。 遅い春を待ちわびていた東北を再び恐怖に震えあがらせる大災害の勃発で、季節の緩(ゆる)やかな変化は踏みにじられてしまったのだろうか。大災害の勃発は三月十一日で、例年ならそのまま春がやってきてもおかしくない頃だったが、被災者の悲しみの心を凍らせるように、冬に逆戻りして粉雪が舞っていた。 遠く東北の大災害に京都の花々も驚き、恐怖したのだろうか。それは大いにあり得る。植物は動けないのではなくて、空間がないに違いないからだ。一本の木を株分けして、一本を地球の反対側に持って行き、それに火を点けるという残酷なことをした実験では、地球の反対側の株分けしたもう一本の木に、同時刻に電気状のものが激しく動いたという。恐らく東北の植物の恐怖は嵐山の植物にも感じられたに違いない。だから満を持して、一斉に、激励のために咲き誇っているのかもしれない。 一ヶ月たった被災地の、一切を破壊し尽くした強欲な津波の跡地にチューリップが小さな芽を出していた。 「これがチューリップでしょう。そして一本が妻の好きなクロッカスだったと思います。妻はまだ見つかりません。それにここにあった家は跡かたも無く消えてしまいました。でも、妻が植えていたチューリップとクロッカスの芽がこれです。塩をかぶっているのに良く芽を出しました。たぶんここが庭だったのでしょう。妻が消え、写真や妻の使っていたものなど一切の思い出が消えましたが、植物は私を慰めていてくれます。ありがたいことです」 龍行は、被災地に茫然と佇(たたず)む人のニュースを思いだしたために、目の前の桜が涙で滲んでしまった。 「きっと、先に咲いた京都のチューリップやクロッカスが東北の仲間に愛を送っているに違いない。おそらく人間もそうなんだ。私が被災し、私が今瓦礫(がれき)の下に埋もれたままなのだ。放射能で汚染された海の底に横たわっているのは私だ。家族の元に帰ろう。そのために動けない骸(むくろ)を目に付く場所に運ぼう。私の命を奪った非情な波に、今度は優しく運んでもらおう。何をおいても逃げなかった私が間違っていたに違いない。しかし、私は、隣の寝たきり老人を運び出そうとして波にのまれた。道端に正座して津波に向かって両手を合わせていたおばあさんを抱きかかえたまま波にのまれてしまった。あのおばあちゃんはどこに行ってしまったのだろう。動けなくなってしまった私だが、もしおばあちゃん、私の思いが伝わるなら、どうか人目につく場所に移動してください。波に頼みます。救助隊に頼みます。救助犬に腐乱した匂いを嗅ぎ取るように頼みます」 龍行は華やかな緋色に囲まれ、人々の花見の宴で肉を焼く強烈な匂いと嬌声や笑いに囲まれながら、静かに冷たい海の底に横たわって、涙が零(こぼ)れるままにしていた。誰が見ても龍行は異常だった。この陽気に、絢爛豪華(けんらんごうか)な満開の桜の花々に囲まれ、人々の歓声と笑顔に囲まれて、ひとり鎮(しず)まりかえって、植物のように空間を失くしていた。 桜に抱かれて泣いている自分が、自分でもおかしいと思った龍行は人混みを避けた。観光客と花見客で溢れかえっている場所を避け、いつもの花々が待っていてくれるあたりを歩いた。