2014年6月9日 更新 第一回 「人間の発展を妨げるおもな障害は、意識そのものの本質についての知識の不足です」 『パワーか、フォースか』デヴィッド・R・ホーキンズ著、エハン・デラヴィ&愛知ソニア訳、三五館刊 「それゆえあらゆる考えを正しくたどるなら、だれでも、結局はいつも自分が愚かなままであり、自分で出すことのできない答えは大いなる心におまかせするほかないことに気がつく。パパラギの中でもきわめてかしこく、きわめて勇気のある人は、じじつこのことをさとっている」 『パパラギ』はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集、立風書房 (一) 終ったのかもしれない。 龍行は戸惑っていた。 それが今までに感じたことのない心模様だったからだろう。 模様とは言ったが、形も色もない。模様は平面に書かれた二次元のものだろうが、それが三次元の固体状のものなら、スーッとそのまま気化して、いわば昇華と言えるような、ある種「さっぱり」とした感じだった。形が「さっぱり」すれば、色はむしろ透明にまで透かれて「すっきり」したと言うべきなのだろうか。いずれにしても、悲しみに色付いたり、ぽっかりと心に穴があいてしまうようなことがなかった。「さっぱり」と「すっきり」が、男と女が仲違いして争い、擦(す)った揉(も)んだの後にやっと別れた後に感じるようなものではない。もっと爽やかと言える。 火が消えるように愛が無くなってしまったのかと思ったが、愛の焔(ほのお)を消す風のようなものに思い当たる節はなかった。もしも愛が測れるものであれば、優(ゆ)貴(き)に送っている愛の量も質も変わらなかった。ただ彼女から返って来るものがなかった。ある日、おかしいな、そう感じた時に、優貴から帰って来る愛に、純粋に優貴だけのものではない、社会という培養器の中で無暗に増殖されている主体のない社会心理のような意識が介入しているように思えた。 最初出会ったころには無我夢中の、何をさておいても一緒にいたい、夫がいようがいまいが、相手に家庭があろうがあるまいが、そんなことはどうでもいいという一途(いちず)さがあった。一途であるから、他の意識が介入してはこなかった。それだけ純粋であり、純粋であればあるだけ、愛というものは本人が意識しなくても、いわゆる人間の意識の根源というか、全ての存在と一体である遍在する愛と一体になって、存在が輝く。周囲の人間が気付くほど、活き活きとして若返り、もちろん肉体も快調になってくる。いわば、本来の人間のありように近づく。 ある日、いつものように逢ったが、「あれ、疲れているな」、そう龍行は思った。もう唇にも乳房にも触れなくなって数カ月がたっていたが、優貴から溌剌(はつらつ)とした精気が失せていた。弾(はじ)ける笑顔が鈍(にぶ)っていた。 ふと思ったに違いない。一途な勢いがまだあったにもかかわらずなのか、あるいはそれが何かで削(そ)がれた瞬間なのかはわからなかったが、ふと思ったのだろう。こんなことをしていてはいけない、これは何か悪いことをしているのかもしれない、と。一途さで、いわば愛の弦をぎりぎりに引き絞っていたものが、ふと弛(ゆる)んだのだろう。その張りつめた弦に番(つが)える矢の先にこそ人間の進化と言うか、人間の本来の存在のありようが的(まと)としてあるのだが、優貴は弦をゆるめてしまって、的をぼやけてさせてしまった。そして、そうすれば「社会」から「やってはいけない」と非難誹謗(ひぼう)されることから身を引いて、意識を犯し始めた罪悪感が捨てられると思ったようだ。一時の熱情が蹴散らしていた倫理観や道徳観、あるいは法的なものへの考慮などが、一途に弦を引き絞っていた筋肉の力を分散させて緩(ゆる)めてしまって、日常の意識レベルに下落してしまったのだろう。 残念ながら、愛は日常ではない。愛が日常になればこんな世界はとっくに天国になっている。愛が日常でないから、日常の規範や倫理、道徳に反し、時に法律に反するような関係でこそ燃え上がる。結婚生活という日常の中に愛を貶(おとし)めてしまうことがあまりにも普通ではあるが、その世界は地獄でしかないのかもしれない。 優貴の愛は一気に冷めたのだろうか。愛が龍行を独占したいというような利己的なものであれば、とっくに関係そのものも解消していたかもしれないが、冷めたというより他の要素に押しつぶされたと言えばいいのかもしれない。このままではいけない、という主体がないにも関わらず意志を持つような社会の思惑に後退してしまった。いや、愛を隠してしまったと言う方が適切かもしれない。「見つからないように」という密会の合言葉からすれば、隠したに違いない。 彼女はあくまで変わっていないという風を装っていたが、龍行の愛が行きっぱなしで戻って来ないことに気付いてか気付いていないかはわからなかったが、普通の友達のような関係を装っていた。その冷めた理由が社会的な思惑であると分かっていたから、龍行は優貴を強(し)いて追わなかった。たとえ追ったとしても、一途な愛は戻りはしないし、その社会的な思惑を解消することが先だと知っていたからだ。どこかでそうした社会的な思惑も、あるいは法的に抵触(ていしょく)してさえもなお貫くような愛を欲しいとは思ったが、優貴の優しさを考えるとそんなことは無理だった。 だから、いつものように、少しぎこちなくはあったが、彼女は同じような笑顔のつもりで笑いかけたが、決して自分の体に触れさせるような機会を作ろうとはしなかった。たとえば、誰も乗って来ないエレベーターで素早くキスをするとか、人込みで手をつなぐとか、愛の初期に最もときめくようなその種のことを一切避けていた。 優貴から戻って来ない愛を感じ始めて、最初、そのままこちらの愛も蝕(むしば)まれるかと思ったが、原因の予想がついているだけ、龍行は慌てはしなかった。帰ってこない愛に寂しさを感じる事があったり、ささやかな返しを精一杯膨らませて喜んだりすることもあったが、次第に優貴からの戻りのない愛の状態に反応さえしなくなっていった。龍行の中で優貴への愛が無くなって行ったというと当たらない感じで、龍行の優貴への愛そのものが、何かで削られたり無くなったりするような質のものでなく、龍行は優貴には終生言わないだろうと思っていたが、もしも他に優貴が素敵な男性と思うような人が現れて、その人と幸せになれるのならそれもいいだろうと、最初から思っていた。だからといって、親のような愛ではない。本当に一切の条件などかなぐり捨てて、ただただその存在を愛するとすれば、それはそういう境地にならないと嘘なので、一切を愛しているということは、いかなることが起こってもそのまま愛しているということだからだ。こんなことは誰にもわかるまい、そう龍行は思っていたし、まして優貴にそう言って、恩着せがましいような、あるいはちょっと恥ずかしいような気障(きざ)な人間だと思われたくはなかった。 純粋な愛、そう簡単に言うが、それは最も吟味しなければ本当にそうであるかはなかなかわからない。親の子供への純粋な愛と言いながら、子供が道を踏み外して自分に災いがふりかぶったり、子供の心配をすることを避けるためだったりすることもある。純粋に愛するとは、その対象がいかなることになろうと、それさえも無条件で愛することである。それは愛を注ぐ対象そのものも神の作りなしたものである以上、それが当然であり、その愛の注ぎ方こそが、神の行為に倣(なら)うことであり、人間の進化を一歩進めることなのだから。 そんな愛し方などできるか、と思うだろうが、多くの人は日常的にそうした愛の注ぎ方を実践している。愛する犬の場合、尾っぽを振ったり、お手をしたり、賢い犬だと介助したり、麻薬を嗅ぎ出したり、芸をしたりして人間の期待に答えるが、猫の場合はその種の可能性はほとんどない。それでも猫を愛している人々は、猫に見返りを一切期待していないで愛することができる。猫によって被(こうむ)るだろう災いも含めて愛しているというか、承諾しているのは当たり前である。さらには猫という生き物は、結構わがままで自分勝手ではあるが、それでも猫を愛するのは、猫の存在そのものを愛しているからで、それこそ神の愛し方と言える。 優貴が猫と一緒とは思わないが、むしろ優貴が猫に劣るのは、飼い主の猫に対する一途な愛を猫自体がいちいち斟酌(しんしゃく)して生きていないことであり、まして主体がない社会の意志のような規範や倫理や道徳に反するからといって、自分に注がれる飼い主の愛に答えてはいけない、などと思わないことである。野良猫に餌をやって近所から非難される程度のことはあっても、猫を愛することでそんなことはありえないだろうが。 優貴の中にふと差し込んだ社会の意志が、彼女の愛を蝕んでしまった。龍行は今さら何をいっているのか、と思わないでもなかった。最初にはそうした状態を知らずに交際を始め、やがて抜き差しならぬような、あるいは愛を肉体の交わりでより高め始めて、実は私には夫がいるのとか、私には家庭があるのとか、初めて告白したような愚かな関係ではなかった。お互いの状態を知っていながら双方が双方の引力に任せたというような関係から始まり、今までと違う人間の関わりに夢中になったのだが。 好意的に解釈すれば、龍行の愛があまりにも純粋で、優貴に何も要求もせず、優貴の試すようなわがままを許し、無理難題にも怒りもせずに答える龍行が理解できなかったのかもしれない。それで、龍行の独占欲のような、いわば普通の愛が見せるような利己的なものがあるかないかを試しているのかも知れなかった。あるいはそれが自分の周りの人々のいわばドロドロした関係とはあまりに違っていて、それが罪悪感になったのかもしれない。こんなに心地よくていいのかしら、と、ますます混乱し悲惨で陰惨な出来事に溢れる社会の中で、自分だけが有頂天ではいけない、そう思ったのかもしれない。 龍行からはそうした優貴の思いを探るようなメールを長く送ったが、優貴からのメールはそれに一切触れず実に事務的なメールに終始した。だからそれに苛立ちもしたが、それが優貴の優貴らしさかもしれないと思い、むしろその社会的な意志を一掃することが先だと考えた。優貴の優しさというか、愛の表現の仕方からすれば、龍行がそれは社会的な意志だから、しかもどこにも主体のない無責任で、勝手に人々が作り上げてしまう思惑だといったとしても、家庭を壊してまで自分が幸せになってはいけない、そう思っているようだった。たとえ龍行の家庭が単に法律的な関係を残しているだけで、完全に崩壊しているとしても、その法的な関係を解消しないまでは優貴の優しさは方向を変えたままなのだろうと納得もしていた。 だから、龍行はいかにも鎮(しず)まり返っていた。優貴に対しての気持ちだけが鎮まり返っていたというより、龍行は一切に対して、鎮まり返っていた。法的な婚姻関係が残り、同じ敷地内で生活している以外、すでに夫婦としての基本的な関係など皆無になってしまった家庭にも、彼が鎮まってしまう理由があった。分かりやすく言えば、感情の起伏を極めて失くすべきだと思う現象があった。