『今夜もまた、時事にたいする興味がしずかに流れさっていくのを感じる』とは谷川雁さんの言葉だが、時事に呆れ果て、懲りないのは壁の中だけでなく、内も外も懲りない人で溢れるご時世、ありふれていない現象をありふれた言葉で書いて、ラディカル(根本的)なことを吠えて見よう。
京都は中国の風水により都として選ばれて以来、千二百の歴史と伝統を世界に誇る文化都市である。そして京都人は、災害のない京都を誇る。とはいえ、災害を免れきたわけではない。また戦場になり、大火に見舞われ、米軍の爆撃を受けたりはしたが、それでも京都は安全な都だと確信している。しかし、日本列島は、「天災は忘れた頃にやってくる」とのんびりと言っている場合ではなく、「天災は忘れずにやってくる」ほどに、想定外、未曾有、観測史上初、歴史上稀などと評される災害が頻発している。だが、火山爆発のポンペイでも、阪神淡路や東北の大地震でもなく、もちろん内陸部だから根こそぎ持っていく津波でもなく、京都の地質学的な成り立ちから、そして文化首都としての役目を終えたことから、京都はある日忽然と消滅する。その時、生き延び、日本文化の集積地をどう守るか、読み進むにつれて京都消滅の可能性の高さに震え、文化とは何なのかを考えさせられる問題作。
拙著の熱心な読者への返事で、自分の書き物で「綿菓子のように実体のないようなものを、くるくる回しているうちに、腹の足しになるようなものを目指しています」と書いた。確かに綿菓子のように言葉のザラメを温めながら立ち昇らせて、確かな手ごたえも腹の足しにもならないような幻想や幻覚にして、くるくる回しながら棒に巻き付けているのかもしれないと思う。では、その綿菓子となって形になる中心にある棒の正体は何なのだろうかと考えてしまう。そうするとそれは少年時代の体験ではないかと思い、そう思うと次々に少年時代の思い出が浮かび上がり、当時それをどう感じていたのかを書き、それがその後にどんな影響を与えたのかを書きたくなった。中心の棒は割り箸の割った後の一本にした物だったが、それは神と分離されて独り立ちさされる少年時代の象徴かもしれない。そんな危うい少年時代の実体験を棒にしてクルクル回して、湧き上がる言葉で綿菓子を作る。
「初恋」には、人それぞれに蘇るセピアカラーの思い出とその時の自分を愛おしく思うような淡い透明な気持ちがある。相手も様々で、人の数だけ初恋の種類もあるに違いない。レモンの味とか甘酸っぱいとか形容される初恋に似つかわしくないが、初恋をぎゅっとまとめると、「異性に対して、今までにない意識に襲われること」とでも言えるのか。ただ、人それぞれの初恋であっても、共通することは相手の顔や動作など目に見える好ましさが動機になっていることである。では、その逆に、外形など問題にならず、最初に相手の内面に対して恋をしたり愛を感じたりすることはないものか。そしてそれが至上の愛に昇華していくような、もう一つの初恋はないのか。もしあれば、それは幼い頃の初恋と違って、いろんなことを知り経験した大人の恋になるのではないか。そしてレモン以上に爽やかに、また甘くもなるのではないだろうか。だが、それだからか、いきなりセックスから始まる。