痛みが軽減すると不安に苛まれる。不安が大袈裟なら、何か強迫観念に付きまとわれる。強迫観念の方が大袈裟かもしれないが、とにかく存在に隙間風が吹くような不思議な不安定感と言うか、頼りなさである。
 
痛みと言う感覚に支配されて、書く源泉であり原動力であった、もう一つの大きな意識、共有の意識からの情報とエネルギーの通路を閉じてしまったのか、媒体であるべきはずの意識が痛みで占領されてしまったのか、いずれにしても何か「頼りない」のだ。

傲慢でも何でもなく、誰でもが本来神の憑代(よりしろ)であるならば、それを痛みで拒んでいるから生きている充実感が失せ、それだから不安定なのか、何かの原因で拒んでいるから痛みに襲われるのか、そんなこんなを考えて三日が過ぎ、鈍痛は残ったが激痛は去った。

「白い粉」でなく「白い粒」のお世話になった。「白い粉」は犯罪を構成するが、白い粒は国家公認の医者が処方してくれた「コデインリン塩酸錠」と命名されたもので、痛みとバーターで副作用も頂戴する。恐ろしいことにあれほど激しかった傷みが3粒で消えた。

だから書かない。今、書いているではないか、と言われるだろうが、これはブログで、本来の書き物は書かない。「いじめ」をテーマにした『合わせ鏡』の300枚手前で激痛が起こった。一番止めたくないところで止まったが、それも何かの意味があるだろうと思うが、この程度の鈍痛なら書けないことも、今までの放送業では書かないこともなかった。だが、白い粒に影響されている間は書きたくない、と思うからだ。

と言うのも「白い粉」をはじめとして意識を変性する種々の外的物を服用、吸引して創造、創作作業にあたる作家がいる。音楽家などに多いようだが、意識を変性して何かを作りだすというのは、どうも本末転倒に思える。芸術活動を通して意識を変性させて神に近づく、あるいは我が盟友映像作家の戸田視朗に倣えば、「創造とは神の思いを思うこと」である。それを先に意識を変性し、その変性した意識で創作するのだが、その変性は日常感覚の変性であり、日常感覚からの遊離と言うか離脱であろう。しかも、その日常感覚からの離脱で高く舞い上がるとそのままで神に至ったように思い、神に近づいたり、神に倣ったりする創造作業でさえやろうとは思わない。全てがそのままで「よし」だからだ。だが、日常意識が降下するといわゆる「バッドトリップ」に陥り、文字通り地獄のさまだと言う。

いずれにしても「白い粉」関係で意識を変性させている間に創造した作品が一級品になり得ないのは、そのような意識のメカニズムにあると思う。だから、白い粒が残っていると思える間は、衝動を抑えて書かない。

その書かない間に書いておきたいのは、死と葬儀と墓である。私は友人知人、およびその関係者の葬儀にはほとんど参列しない。失礼だとか不遜だとかは思わない。むしろ死を現在世間で一般的なように弔うことこそ死者に失礼だと思うし、不遜だと思う。死と葬儀とその後の仏事がいかなる「おもわく」で今日のようになったかは、『縁』に詳しく書いたから省略するが、インド・ガンジス川のワーラーナシーのガートで荼毘に付される光景を見て、それが粗末に扱うことでも失礼なことでもないと思った。人間として、いや生き物としての命こそが尊いものだが、その尊いものを運ぶ船に過ぎなかった肉体には、誰もいないと思えたからだ。

すでに抜け殻になった肉体を慇懃無礼に扱わせる仏事こそ失礼に思う。死者を粗末にしなくてもいいが、猫のようにはならないまでも、命を大事にすべき世界だから、生きているものが生き生き、わくわく生きられれば、死を今のように扱うこともないのだろう。

「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません」「とは『千の風になって』の歌詞だが、日本の歌手の歌い方に好意を持てないから、アメリカ合衆国の詩『Do not stand at my grave and weep』の詩だとしておくが、墓もまた「おもわく」の産物でしかない。

だから私な何度も死にかけながら、葬儀一切、仏事一切、墓はいらないと言う思いが強くなり、そう宣言している。死にかけるというか、死に損なうと、「人間本来無一物」が良くわかる。

そんなこんなで知人の葬儀には参列しないし、もちろん知人友人の両親などの葬儀にも参列しない。だから私は両親を亡くした時も、自分の友人知人には知らせなかった。私が采配できた母の仏事も一切やっていない。その代わりと言ってはなんだが、両親はじめ血縁者には毎朝、瞑想後に読経と水と花と蝋燭と線香などで供養し、参列しなかった友人知人にも、私なりの供養?を日々行っている。

そんなこんなで生前墓のようにせっせと書いて言うのかもしれないが、墓石のように堅牢でなく、卒塔婆のように世間の風に靡(なび)いている作品もある。これらの卒塔婆は楽しんでもらえると思うから、どなたかの口癖のような「環境」を早く整えたかったが一昨日ようやく整った。

『吾輩も猫である』『白百合』『凌霄花』の三作が明窓出版を主に電子書籍化されて販売された。拙著の中ではエンターテイメントとでもいうべきものである。ご笑覧を。いや卒塔婆だから喜捨を乞うとでも言うのだろうか・・・

吾輩も猫である凌霄花白百合

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