お盆である。その種の祖先崇拝の行事は古くよりあった祖霊信仰と結びついた仏教行事のように言われるが、独断と偏見で言えば、釈迦はそんなことは言っていなかったように考えられる。

もともと釈迦もイエスも自分で書き残したわけではないから、弟子たちが自分たちの意識のレベルや宗教的活動のために作り、また時に改竄(かいざん)して今日に伝えているものに過ぎない。

例えば『聖書』に、十字架上のイエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(『マルコによる福音書』他)と言ったとある。「この期に及んでそんな馬鹿な」「今までの神への信頼は何だったのか」と思わずにはおれな。間違いなくそんなことは言っていないはずである。

ベナレス、いやバラナシー、いや今はワーラーナシーと表記するガンジス川の火葬場で、煙にむせびながら、またボートを借りて対岸近くに行き、金がなくて充分に焼くための巻きがなく、半焼きで流れ着いた遺骸とそれを食べる痩せこけた犬を見ながら、それがヒンズーの習慣であろうと、仏教の習慣であろうと、死は人間を物体にし、まさに消滅させるというのが自然なのだと考えていた。

事実、墓や仏壇など後世の宗教家が奨励斡旋したことで、釈迦の教えにはない。お盆も中国で作られた『盂蘭盆教』と言う『疑教(ぎきょう)』によっている。あっちこっち、探り探れば、お盆とは、サンスクリットの「ウドランブ」から来ていて、それが「ウランバナ」「盂蘭盆会」「お盆」になったようだ。(バンザーイ、バンザーイ)

その意味するところは、「逆さ吊りにされている」ということで、半年が過ぎたこの時期に、「自分を逆さづりにして」、半年を振り返って、自分の行いを改めて振り返り、その至らなさ、愚かさをしみじみ反省し、懺悔することのようだったと思う。

ではお盆は、「長い間子孫に供養されないで逆さ吊りの苦を受けている死者の霊に飲食を与えて、その苦しみから救おうとする、インド古来の先祖崇拝に起源をもつ行事です」とは言えないとしても、先祖崇拝をしなくてもいいとは考えていない。ただ、『千の風になって』に歌われているように、墓には死者はいませんし、墓はあくまで生きている者のためであって、死者のためではないように思うし、死者が「風」になって吹き渡っているとも思えない。

では、どうなのか、それはずっとずっと書きながら考えてきたことで、今回の手術を機にまたまた「人間と世界」「生と死」などなど不思議な事を思いついた。それは秋には出来あがるから、読みたいと言う奇特な方が現れれば送らせてもらう。実は「お盆」に先祖だけでなく、世界中の人間と生き物と地球そのものに祈りを捧げるべきことを書こうと思ったのだが、長くなるので、また次回。

先祖だけでなく、世界中の人間と生き物に祈らねば、と思ったのは、今年のアカデミー小で外国映画賞に輝いた『未来を生きる君たちへ』(原題『復讐』)のことを知ったからだ。

彼女の「祈り」こそ、今、世界が気付くべきことだろうと思う。スサンネ・ビア監督がまたまた「素敵な女性」であることも合わせて、次回。

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