お盆である。
『伊吹龍彦が吠える』2011-08-14のブログから引用する。

・・・墓や仏壇など後世の宗教家が奨励斡旋したことで、釈迦の教えにはない。お盆も中国で作られた『盂蘭盆教』と言う『疑教(ぎきょう)』によっている。あっちこっち、探り探れば、お盆とは、サンスクリットの「ウドランブ」から来ていて、それが「ウランバナ」「盂蘭盆会」「お盆」になったようだ。
その意味するところは、「逆さ吊りにされている」ということで、半年が過ぎたこの時期に、「自分を逆さづりにして」、半年を振り返って、自分の行いを改めて振り返り、その至らなさ、愚かさをしみじみ反省し、懺悔することのようだったと思う。
ではお盆は、「長い間子孫に供養されないで逆さ吊りの苦を受けている死者の霊に飲食を与えて、その苦しみから救おうとする、インド古来の先祖崇拝に起源をもつ行事です」とは言えないとしても、先祖崇拝をしなくてもいいとは考えていない。ただ、『千の風になって』に歌われているように、墓には死者はいないし、墓はあくまで生きている者のためであって、死者のためではないように思うし、死者が「風」になって吹き渡っているとも思えない・・・

先祖供養も良いが、『疑教』を基本とし、ユダヤ思想まみれの『儒教』による先祖供養なのだから、お盆は、今年から、先の世代のことも考える日としてはどうだろう。アメリカ・インディアンの名言にある。

「どんなことも7代先まで考えて決めなければならない。」(イロコイ族の格言)『アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉』(エリコ・ロウ著、扶桑社文庫)

原発が電力不足を理由にできないことを知ってか、この酷暑、猛暑でも節電を昨年ほど言わなくなった。それでも7代先にも廃炉が覚束ない原発を稼働すると叫んでいる。間違いなく頭が悪いとしかいいようがない。

「それはこの国に自然資源が不足しているからではなく、権力を持つ人々に想像力が欠如しているからだ」『君あり、故に我あり』サティシュ・クマール

コメントを残す

* が付いている項目は、必須項目です!

*

Trackback URL