嵐山桜満開第四弾 2013年4月3日 ツイート 連載を始めると、アクセス数が一気に増える。有り難いことで、ますますお調子者の指(筆?)が進む。「いつ咲くのですか?」「今です」とは、CMではないが、真理。今日から『Jazz』の『Sakura』も狂い咲きか。それとも蕾のまま腐るのでなく、蕾のまま爆発か。 夜桜は予告編 『Jazz』より 古来より日本列島に生きさせてもらった人間たちは、さくらの咲きよう、すなわち寒い冬を超えてこその春に咲き、しかも誰彼の区別なく咲くことに生き方を学び、そして見事に散っていくことに人間の死の理想形を見てきた。しかし、さくらの散り方に武士道を見たりするが、人を殺すために設けられたような階級、そして殺しても許される特権階級がいかに優れていたとしても、さくらの散り際になぞらえるのは、さくらに失礼である。さくらは散っても散らせても、それは血の色ではない。最も赤に染まる桜でもあくまで優しい緋色である。 「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山ざくら花」と言う。「桜の美を知るとは、日本人の心の美しさを知ることである」と言い、そして「武士道とは、散る花の潔さを称えた散華の美学にほかならない」と言い、「桜を語ることは、日本と日本人を語る」と言われて、さくらに比して日本と日本人を褒め、武士道を称揚する。この解釈の前段「桜の美を知るとは日本人の心の美しさを知ることである」と後段「桜を語ることは、日本と日本人を語る」には異議を唱えようとも思わないが、中段がさくらの花の散りようを言っているとすれば、日本列島住民はもとより世界で愛されるようになってきたさくらを支配の詭弁に利用しているとしか思えない。 そもそも「武士道」は、甲州流軍学の聖典と言われる『甲陽軍鑑』に最初に記されたが、その「軍」と言う文字が示すように、「個人的な戦闘者の生存術」であり「武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いていた」と言う。しかも「普遍的に語られる道徳大系としてのいわゆる『武士道』とは趣が異なる」とはいえ、「武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候」と戦国時代の武将「朝倉宗滴の言葉に象徴されるように、卑怯の謗(そし)りを受けてでも戦いに勝つことこそが肝要であると言う冷厳な哲学も内包しているのが特徴である」そうだ。しかし、いかに「普遍的に語られる道徳大系としてのいわゆる『武士道』とは趣が異なる」と弁明されていても、「武士道」の根本的な哲学が進化したわけではない。「犬」と言う素晴らしき動物、犬の形になった神とも言うべき存在を侮蔑の比喩に使う見識からして辛い。『動物はすべてを知っている』を書いたJアレン・ブーンに比べれば、武士道の意識の進化のレベルが分かる。 道徳大系としての武士道は、「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐れみをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」とあり、それは「ひいては『家名の存続』と言う儒教的態度が底流に流れているものが多い」とされている。これが支配のイデオロギーにほかならないことは、それは「人間は自ら倫理を担うものであり、社会は倫理に基づいて人間が実践する場である」とし、「国家という制度のように目には見えないが武士を動かしたそれを」「天」とし、「そのうえで自らが所属する共同体への倫理と天からあたえられた倫理が衝突した場合に武士は天倫を選択すると考えた」山鹿素行を支配者徳川幕府が処罰したことからもわかる。 その後、「武士道」は様々に解釈され、時の支配の思惑によって利用されてきたが、江戸時代後期の『葉隠』の中の「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」とか、「常住死身に成る」「死習う」とか説かれていることに象徴的なように、死ぬことがさくらの散り際の潔さに重ねられてきたのは間違いない。しかし、「武士道」には、さくらの散り際は見えても、さくらの優しい色合いが見えない。艶やかな命が見えない。 そして日本の思想的な骨格を「武士道」から構成しようとしたのか、明治に入って山岡鉄舟は「神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於いて其著しきを見る」と言い、「鉄太郎これを名づけて武士道と云ふ」と武士道を初めて自分が言ったように言ったが、いかに支配の都合で作り、権威化し、強制してきた思想を合わせても、日本列島に生きる人の幸せを創造できる思想にはなりえなかった。 その後、内村鑑三や新渡戸稲造などキリスト教者によって、「日本の精神的土壌をどのように捉えるか」のテーマで、「武士道をその内の検証の一つと」した。新渡戸は「日本における宗教的教育の欠落に突き当たった」ようで、新渡戸は「近代において人間が陥りやすい拝金主義や唯物主義の根っこにある個人主義に対して、封建時代の武士は社会全体への義務を負う存在として己を認識していたことを指摘」し、「武士は、国際社会において日本人の倫理感の高さ、国民一人一人が社会全体の義務を負うように教育されていると説明するのに最適のモデルであった」と言う。 しかし、この新渡戸にしても日本列島に相応しい日本的な思想の構築に成功したとは言えない。一方で封建支配体制の駒でしかなかった武士の生き方と倫理を掲げ、一方でキリスト教布教と言う欧米の支配のルーチンにまんまと誑(たぶら)かされて、その双方から自分の意識の枠組みにあったものを構築しようとしたとしか思えない。求めるべきは二者択一でも二者融合でも無く意識の次元の上昇だったのだが、そんな意識の構造にまで至る人はいなかった。そうした日本のキリスト教者の典型が遠藤周作に見られる。 遠藤周作は離婚した母に育てられ、母が洗礼を受けた二か月後に、十二歳で洗礼を受けた。十二歳と言う子供の頃の思想的傾向を十五歳になっても、十八歳になっても、いや二十五歳、三十五歳、いや七十三歳で亡くなる晩年まで捨てずに、いや超えられずにキリスト教と言う意識の枠組みを変えなかったことに驚くが、彼は『沈黙』に登場させる神父に、「日本の精神的土壌においては神の存在、絶対的な存在が根付かない、すべてのものを腐らせていく沼が日本である」と言わせる。そして「日本人は結局、個人もしくは集団として現世・来世に不利益と思えば思想そのものを大きく変更しても構わない、この原理は日本人にとりあらゆる哲学や宗教原理よりも強い」とキリシタン時代を描写し、そして人生最大のテーマとなった葛藤が、「日本人でありながらキリスト教徒である矛盾」で、自分の信仰に関する思索を「だぶだぶの洋服を和服に仕立て直す作業」と考えた。そんな葛藤に悩む彼の作品に対して、「単なるキリスト教優越主義」とか「欧米優越主義」との批判もあるが、それだけでは済まされない。 ツイート
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