嵐山、春発見 2013年3月15日 ツイート 拙い写真だが、2013年春、最初に発見した菫。 しばし不調だったからウオーキングもままならず、とっくに春の兆しはあったのだろうが、今日、青空でとびっきりの春。福島の野も放射能物質に汚染されない春が来る日はあるのだろうか。 拙さを重ねて、本日の嵐山の春を。 菫の花については、拙著『京都に絶望して』(紀伊國屋さん他電子書籍で販売)より引用。 紫が流れた。流れてつながった。 いや紫が流れたのではなかった。私が紫を追い、一斉に風に揺れた紫に沿って視覚が流れたのだった。 紫は古代より高貴な色とされるが、光から遠ざかると黒と見紛(まが)う。いや黒に埋没しているのかもしれない。しかし、一旦光の中に入ると、そう光の溢れる場に立つと、その控えめで光の乏しい場では全く自己主張しない色が輝くばかりの美を放つ。その光の中で輝くばかりの紫に人々は声を出して感嘆し、その紫の光彩を借りて権威をかざす、それが支配の狙いであったのだろう。 今更言うまでもなく、紫は虹を構成している色の中で最も波長が短い。そして、「紫とは赤と青の混合から成立」し、それは「最も陰なるものと陽なるものを混ぜた色」で、つまり「紫は色の中でも最も波長の短い高品位な色であり」「陽の赤と陰の青の混合色」で、「次のサイクルの境界色と解釈するべき」という。だから「古来より、紫を『高貴・神秘・高次元』という位置づけをしてきた意味はここに」(安部浩之『環境免疫学研究会』)あると言う。 しかし、支配の頂点にしか許されなかった色としての紫の経歴を唾棄したい。紫は本来ひっそりと紫である。紫は「山路きて なにやらゆかし 菫草(すみれぐさ)」の紫にしておきたいが、私の視覚で連なって流れたのも、菫の紫である。 芭蕉が「ゆかし」と詠んだ「ゆかし」は、「何となく知りたい、見たい、聞きたい」「何となく懐かしい。なんとなく慕わしい」「上品ですぐれている」などが意味として伝わるが、恐らく芭蕉は「山路きて」を長い日本列島住民の越し方を思い起こして、「ゆかし」と言うひとことで、人類史の曙より人間の営みを眺めていた可憐な菫に当時を聞きたいと思ったのだろうし、決して支配の象徴のように栄光の舞台を求めず、路傍にひっそりと咲く紫に人間の生き方を感じたのだろう。その上で、日本人の中に以前から連なっているだろう系紫を高貴な色とする譜で懐かしさを感じ、そのたたずまいの謙虚さに上品で優れているという思いをかけたに違いない。 私も菫の紫に言いようのない懐かしさと親しみを覚え、コンクリートとブロック塀という化石で作った「死」の狭間(はざま)にけなげに咲く菫にはつい足を止める。その時もアスファルトを敷き詰めた川沿いの道路で、その道路の端のわずかな隙間に懸命に咲く菫の紫に撃たれた。足も止まり意識も釘付けにされたままだから、まさに撃たれたに違いない。その紫の弾丸に穿(うが)たれた穴からどくどくと血が溢れるように私の中に暖かいものが溢れてきた。それは懐かしさであり、けなげさへの愛おしさであったのだろう。ひとつ目の群落を見つめていた視覚の端に紫があり、それに沿って視覚が流れ、視覚に引きずられて足が紫に沿った。アスファルトを全部はがして、紫を抱きしめて帰りたいと思ったが、路傍の菫は人の手でなかなか栽培が難しいと聞く。「手に取るな やはり野におけ 蓮華草」ならず、やはり野におけ菫草なのだろう。これを詠んだのは芭蕉より後生の播磨の俳人滝野瓢水と言う。しかも「平生したしき人の、難波の遊女を根引せんと云へるをいさめて」とあるから、芭蕉の有名な句を知り、その紫がやはり野にあるべきだと思ったのか、思わなかったのか、いずれにしても遊女が蓮華草であると詠ったのはよしとしても、「根引き」という「遊女や芸妓などを身代金を出して落籍させる」ことを諌(いさめ)たのは面白くない。そこにこそ愛の成就があっただろうに。 いずれにしても植物の蓮華草や菫は野におくものであって、人の手を拒むのだろう。だから芭蕉は山路の菫を詠んだ。人の頂点を象徴する色は、それを嫌っているのか、人の手を拒むことを暗に匂わせたのかもしれない。菫という紫は、まさに山路であり路傍であり、そうした権威のかけらも見出せない場所こそが、咲こうという意思の場に違いない。 「『菫』の名はその花の形状が、大工道具の墨入れ(墨壺)を思わせることによる」という説を牧野富太郎が唱え、「牧野の著名さもあって広く一般に流布しているが、定説とは言えない」そうだが、古来より知られた野草の花の形が、大陸より輸入されてきた大工道具の形にたまたま似ていたので、その名をつけたというのはどうも怪しい。大陸から伝来した「墨入れ」というが、正倉院はじめ古い時代の物は直線的な形で、これから「菫」の花を連想するのは難しいと言われ、また「春の野に 菫つみにと 来(こ)し我そ 野をなつかしみ 一夜寝にける」と山部赤人が詠んだように、『万葉集』には菫を詠んだ歌が四種と少ないが、それでも菫と言う名は知られていたはずである。 何でも彼(か)でも大陸から伝播したとすることがおかしいことはもちろん、この種の安易な日本語の語源説も日本列島の原住民への無視である。もしも大工道具の「墨入れ」が語源だとしても、それが大陸から伝来した建築様式とともに入ったとされるならば、それまでの日本古来の建築様式の無知、無視による。 今からおよそ四千年前の縄文遺跡である富山県の桜町遺跡など多くの縄文遺跡からは、法隆寺などその後の日本の建築に使われる木組みの工法が発掘されているように、あらゆる学問や技術の大陸伝来説は卑屈で悲しい。日本には縄文時代まで遡ることの出来る木組みによる偉大な木の文化と歴史があった。 菫への懐かしい思いは、その縄文時代から受け継いだ遺伝子のせいなのか、私は散歩の足を緩めて菫を追いかけた。嵐山の駅まで続く道に点在している紫に煽動されて菫を視覚で繋いでいった。川が暗渠になり、紫の連なりが途絶え、それは道路を挟んだ反対側にある細い溝に飛んだ。私は躊躇なくその紫に近づいたが、溝の中では群生している菫に視覚が圧倒された。それまでは緑を従えて一輪か二輪の、しかもか細い茎の上にあるささやかな紫をズームアップして見ていたが、一輪を大写しにして見ていた視覚が圧倒された。群生した紫が乱舞していた。私はしゃがんだままで溝の中の紫を見ていた。 私は一点を凝視する視覚を広げて、溝の広い範囲を見ることになったが、その視覚の隅に白い毛糸の手袋か靴下か、そんな白い塊が見えた。風に揺れているとも思った。溝の中で風に揺れる毛糸の手袋、そんなものはありえなかったが、紫に占領されていた意識がいい加減な認識をしただけで、紫から意識を剥いでよく見ると、それはモゾモゾと動く小さな動物だった。その白い手袋の大きさ程度のものは、私の気配を感じてか顔を上げた。可愛い子猫だった。 ツイート
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